アナログレコードを愛する人々第5回 Turntable Troopers ENT. 代表取締役 DJ $HIN氏

2019-08-22

第5回は、「Turntable Troopers ENT.」代表取締役のDJ $HIN氏にインタビュー。DJ/プロデューサーとしても活躍し、日本のDJ界を牽引されてきました。

『すぐにターンテーブルを買いに行った』

−音楽に興味を持ったのは?

一番古い記憶は「およげ! たいやきくん」のレコードです。子どもの頃、おじいちゃんのステレオでよく聞いていました。「ホネホネロック」とか(笑)。
それと6歳上のいとこのお姉ちゃんが洋楽好きで、いつもカセットテープに最新ヒットソングを自分で編集して僕にくれてたんです。だから小学生からずっと洋楽ばかり聞いていましたね。

DJをやってみようと思われたのは、いつ頃ですか?

高校2年生の時、まだ日本に入りたてだったスノーボードがしたくてスキー場のアルバイトに応募して長野県栂池のディスコでウェイターをしました。その頃まだ僕はダンスに夢中で、昼はスノーボード、夜はダンス、バイト代ももらえるしで、毎日最高でした(笑)。
そこに同じ大阪から来ていたDJさんと仲良くなって「いつも、そこに立ってなにをやってはるんですか?」と尋ねたんです。そしたら親切に教えてくれて「これは、すごい!」となり、大阪に帰るなりバイト代と貯金を握りしめターンテーブルを買いに行きました。

『スクラッチとの出会い』

衝撃を受けたのですね。

はい。大阪に帰ってターンテーブルを手に入れてから、DJの見習いに行きたいと思って長野で一緒だったDJさんに相談したら、「じゃあお店紹介してあげるわ」となって、見習いとしてDJをスタートしたんです。
*ディナスティというディスコで働くことになり、初めてついた師匠がスクラッチが大好きな人だったんです。その方が僕に初めて**DMCの世界大会のビデオを見せてくれたんです。それで超感動してスクラッチってスゴイ!となって、そこからはずっとスクラッチです。ディナスティが閉店する時に師匠が「自分は家業を継ぐから、お前はツレのDJのところに丁稚奉公へ行け」と(笑)。その通りに丁稚奉公へ出るんですが、それがその当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのGM-YOSHIさんだったんです。

『天才であってもすごく努力している』

−Turntable Troopers ENT.を立ち上げられたのは、いつ頃なんですか?

若い頃から独立心は強かったですね。生意気だったと思います(笑)ただ若い頃は金もなかったんで、少しずつ貯金したりして(笑) 2003年に立ち上げました。

−今までにスクールで教えられた生徒数は、どれくらいいらっしゃいますか?

最初はDJスクールを楽器屋さんと組んで企画としてやってたんです。その後また別のスクールを立ち上げたり、その頃でも生徒数は250人近くいました。ある時、専門学校でDJ科を立ち上げるんでとお声をかけて頂き、講師を務めました。6年間くらい務めましたね。独立してからは16年ですが講師としては20年以上になるんで、はっきりとした数字はわからないですが、1,000人ぐらいだと思います。

−すごい人数ですね。生まれつきのセンスを持っていると感じた生徒さんはいらっしゃいましたか?

いませんね。どれくらい続くかなとシビアな目で見てるんですよ。”化ける”という言い方をしますが、思いもよらない人が急に馬力を出すんです。僕の知る限り天才は***RENAくんぐらいかなぁ。天才であっても、もちろんすごく努力していますよ。

『ターンテーブリストとしての気概』

−ターンテーブリストという表現はいつ頃からあるんでしょうか?

1990年代の半ばに、アメリカの****ビートジャンキーズのメンバーであるDJ Babuが最初に言ったとされています。それまではDJとかスクラッチャーとか言ってましたね。

−ターンテーブリストとしての自負というか、PCを使用しないアナログDJとしての気概ってありますか?

ターンテーブリストと名乗るのであれば、人一倍上手にターンテーブルを扱えないとダメだと思うんです。バンドにターンテーブリストとして参加する時にどんなパフォーマンスができるのか、歌手のバックDJをする時にどんなパフォーマンスができるのかとか、その時々で求められる技術は違うと思うんです。自分が思っていることができるように、日々鍛錬しておかないとダメだと思います。

−$HINさんご自身は、毎日ターンテーブルを回されているのですか?

スクールでレッスンがあるので、今でもほぼ毎日触ってます。自宅にいるときはぼけーっとゲームとかしてますけど(笑)。

−ご自宅にもターンテーブルが?

置いてますよ。いつ何時アイデアが降りてくるか分からないので。

−今までに購入したレコードは何枚ぐらいですか?

何枚ぐらいなんですかねぇ。数えるんでちょっとだけ待っててもらえますか?(笑)。でもキャリアの割に僕は少ない方だと思うんですよ。なんで少ないかと言ったら、コンテストに出るための練習には基本2枚あれば事足るんですよ(笑)。それが何ペアかあればずっと練習しているので。それでも、ざっと10,000枚くらいはあると思います。

『夢のおもちゃ』

−昨今のDJ業界というか、ご自身を取り巻く環境についてお聞かせください。

1980年代にスクラッチが日本に入ってきて、先輩方が色々と試行錯誤を繰り返されたのを僕たちが継承して伝えている訳なんですが、今はポータブルレコードプレーヤーでスクラッチが出来る。いわゆるおもちゃですよね。”おもちゃ以上プロ仕様未満”がちょうどいいんですよ。1960年代以前からポータブルのレコードプレーヤーはありましたが、それに*****フェーダーを付けるだけで楽器になっちゃったんです。これが僕らからすると”夢のおもちゃ”なんですよ。小さい頃から子ども達に、こういうので楽しく遊んでもらって、プロのDJを目指してもらえたら嬉しいです。ただ、もっとDJの仕事ができる環境が増えればいいなとは思いますね。

『かっこいいと思う方向へ』

−スクールだけに留まらず、製品企画や楽曲制作など様々な活動をされてますね。

そう言われればそういう人はあまりいないですね。珍しいタイプだと思います(笑)誰もやった事無い事をするのが好きなんですよ。興味があることにはとことん突っ込んでやります。製品の企画とかも自分が好きで(DJを)やっているので、こんなの欲しいな的なアイデアはいくらでも出てきます(笑)

−DJスクールの在り方についておしえてください。

お金を持っている企業がスクールなどをやりだしましたが、二つの方向へ分かれて行ってると感じますね。ターンテーブリストがやってるスクールとそうじゃない人がやっているものとではレッスン内容が大きく違います。でも、それぞれがかっこいいと思う方向へ行ったらいいと思います。クラブやフェスとかで盛り上げる方が良いと思えばそっちへいけば良いし、僕らみたいにコンテストやバトル、寡黙にスクラッチをやっているのがかっこ良いと思えばそれで良いと思います。

−ご自身がDMCなどの大会に出場されていたのは?

1993年あたりから1999年にかけてです。

−その当時はDJの大会は、どんな大会がありましたか?また、日本人のDJはどんな感じだったのでしょうか?

今残っている大会はDMCぐらいじゃないですかね。その当時から日本人は本当に努力してきて、GM-YOSHIさんやDJ HONDAさん、DJ TA-SHIさん等、世界にランクインされている方もいらっしゃいました。みなさん努力家で繊細ですね。今ではDMCでも常勝国として認知されるほどになりました。

『自分を信じて、自分のスタイルで』

−これからDJを始める方やプロDJを目指される方へコメントをください。

技術的なものは、独学よりも習う方が良いと思います。身につけた技術をどう使うかなんです。他人のスタイルを参考にするのは良いですが、それを真似るのではなく、自分を信じて自分のスタイルでやるべきです。人に流されると二番煎じ、三番煎じになってしまう。誰もやっていない事をやる方が良いです。


*1985年に大阪宗右衛門町にあった、ステーキが美味しいと評判だったディスコ**世界一のDJを決める大会
***若干12歳にして「DMCJAPAN2017」を制覇し同年10月にロンドンで開催された”DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIP”に出場し過去最年少で世界王者になったDJ
****1992年に南カリフォルニアで結成されたDJ、プロデューサー集団
*****DJミキサーなどに用いられている音量やエフェクトの出入力のレベルなどを設定するツマミ。ここでは、2つのチャンネルを切り替えることができるポータブルクロスフェーダーのことを指す。

インタビュー後記

DJに対しての昔からの一般的な既成概念を覆させられました。なにか、噺家の世界観を彷彿とさせるような経歴と思想、そして日本のDJ業界に対してしっかりとした持論と教養も持ち合わされておられたのに驚きました。今まで個人的に抱いていた「チャラチャラとして不健康そう」というイメージとは正反対でした。なにより先人達に対しての尊敬を忘れず、いつも謙虚な姿勢に頭が下がる思いがしました。$HINさんのお人柄が凝縮された取材になりました。

Turntable Troopers ENT.
代表取締役/DJ/プロデューサー DJ $HIN (でぃーじぇい・しん)

幼少の頃より洋楽を耳にする環境の中で育ち、10歳からブレイクダンスを始める。1990年DJに目覚め、1991年よりプロのDJとして活動をスタート。同時にDJバトルにインスパイアされ、そして参戦。数々のタイトルを奪取、西日本チャンピオンを4度経験し、1998年には日本第2位まで上り詰め、翌年1999年、DMC日本代表となった。
それと同時に、K.O.D.P.のBooなども在籍したS.B.S.のDJとして、Word Swingaz/FutureShockのライヴDJとしても活躍。名曲Shingo2/E22との”Pearl Harbor”などのトラックメイカーとしても知られる。
さらには数々のテレビ番組にも出演、FMラジオ番組のレギュラーも務めた。2003年にはCREWの名を一部に冠したレーベル、“Turntable Troopers ENT.”(T.T.E)を立ち上げ、第1弾音源ともなるソロアルバム『World Famous』をリリース。その後、『SAMURAI BREAKS』、『BANZAI BREAKS』、『KAMIKAZE SKIPPROOFS』など、次々にリリース。どれも国産バトルブレイクス史上記録的なセールスで、今もなお記録更新中である。
最近ではDJスクール、音楽専門学校など若手育成やプロデュース活動に重点を置き、そのスキルを発揮している。
まさに日本DJ界の『PIONEER』的存在。

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