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アナログレコードを愛する人々第7回 DJ SHARK 氏

第7回は、長年HIPHOP DJとして活躍されているDJ SHRK氏にインタビュー。DJ修行のためにニューヨークに住まわれたことがあるそうです。 『いまだに納得できる音が出せていない』 ―レコードブームの再来と言われていますが、以前のブームとは違いますか? 間違いなく違うと思います。いろんな人がレコードを楽しんでいると思います。DJ機器などは本当に好きな人だけが買っている。それが僕はすごく嬉しいです。僕自身、昔は、そんなに音にこだわっていなかったんですが、今は特にアナログで回す時は気にします。 ―具体的にどういった点を気にしますか? 音の出方です。イベントなどで(レコードを)回す時は、会場の環境にもよりますけど、雑音の多い所だと「音が出てればいいか」と思うんですが、クラブやリスニング会場のような、皆さんが真剣に聞き入られる所だと全然納得できないです。全部自分の機材を持っていきます。それでも自分の納得できる音が出せていないんです。 ―DJに興味を持たれた経緯を教えてください。 若いときに京都の三条にあった「MAHARAJA CLUB」へ踊りによく行ってたんです。当時は滋賀に住んでいたんですけど、あるとき滋賀で大きなイベントがあったんです。そこでDJを見て、「なんやこれは!!」と思いすぐにDJ機器を買いに行きました。DJの真似事みたいなことを家でずっとやってましたね。 ―レコードを収集されだしたのも、その頃ですか? 本格的に始めたのは、その頃からですね。それまでもレコードは持っていましたが、全くジャンルが違うレコードを買っていました。 『やっぱり家とは違うなと』 ―人前で初めてDJプレイを披露されたときのことを教えてください。 学校を卒業してすぐ、滋賀から京都に出てきて働きながら自分で*ミックステープを作り京都のクラブへ売り込んでいました。そしたら電話が掛かってきて、そのクラブで面接みたいな感じでDJプレイを見てもらいました。その後いきなりお客さんの前でDJをすることになり、ブルブル震えながらプレイしました。 ―その日を終えられて、いかがでしたか? ものすごく楽しかったですね。やっぱり家とは違うなと(笑)。お客さんに「選曲がいいな」とか「良かったよ」と言われたりしてめちゃくちゃ嬉しかったです。 ―DJとして本格的にやっていこうと思われたのは? これで食べていこうとかは考えていなかったです。昼間は働いて週末にクラブでDJをするって感じでした。最初は無名でしたのでギャラも少なくて、昼間働いたお金で少しずつレコードを買ってました。 スタジオの一角にあるギターと録音機材。 『選曲にはその人のセンスが出る』 ―曲と曲をつなぐ時の選曲はその人のセンスが出るものなのですか? 大いに出ます。リズムが大事なんですよ。今かかっている曲から次はこの曲をかけたらいい感じになるんじゃないかとか。ただレコードの場合は、その時に持ってるレコードの中だけでしか選べないんですが、PCの場合はいっぱい曲が入っているのでね。僕なんかは曲名で覚えてなくてレコードジャケットで曲を覚えてるんですよ。たまに違うレコードが入ってるんでその時はビビりますけど(笑)。 『ターンテーブルはスポーツカーのようです』 ―PCを使用したDJが大多数になって来ていますが、ご自身はいかがですか? 私もTPOに合わせてPCで回す時があります。最初の2年ぐらいはなかなか慣れなくて外に持ち出せなかったですね。ターンテーブルとPCでは全く違うんですよ。面白さではターンテーブルの方が勝りますね。力量がそのまま出ます。やっぱりターンテーブルでレコードを回すのは難しいんですよ。 PCとターンテーブルでは0.数ミリの間のズレがあってデジタルの方が反応が遅いです。車のハンドルに例えるとPCは普通の乗用車でターンテーブルは遊びが全くないゴーカートやスポーツカーのようです。 ―レコードは何枚ぐらいお持ちですか? 今は最盛期の半分くらいしか無いと思います。全部ニューヨークに持って行き、あちらでもレコードを沢山買いましたが、帰国するときに知人にほとんどあげました。今は五千枚ぐらいしかないですね。優に一万枚以上は買っていますが、僕は少ない方だと思いますよ。 ―SHURE社が昨年カートリッジから撤退しましたがカートリッジ(交換針)にこだわりがありますか? 最初はSHUREの44Gを使っていて、途中でOrtofonのコンコルドを使ったりしましたが。自分にはやはりSHURE M44-7が一番しっくりきます。 『単身、ニューヨークへ渡ったんです』 ―ニューヨークへ行かれたんですね? そうですね。京都でDJを始めたんですが、あるとき地元の滋賀へ戻ったんです。 その頃はDJの大会によく出場していて、1996年のDMCまで出ていました。しかし、大会ばかり出ていたら、選曲がわからなくなったんです。クラブでお客さんの雰囲気を感じることができなくなってしまって。壁にぶち当たったんですね(笑)。ちょっと勉強したいなと思いまして。それまでにニューヨークへは何度か行っていたんですが、行くのと住むのとは違うと思い、単身ニューヨークへ渡ったんです。5年の間にクラブ、イベント、ショータイムなど色々な経験をさせてもらいました。 ―SHARKさんの選曲は、やはりニューヨークの影響が大きいですか? やっぱり大きいですね。帰国当初はかなり影響を受けていたと思います。今は好き勝手にやらせてもらってますけど(笑)。 『ダンスの世界に近付いている」 ―現在、ご自身を取り巻く環境についてお聞かせください。 帰国した当初はDJとしての仕事が全くなかったですが、去年ぐらいから色々とお声掛けいただいてます。特にTechnicsさんが復活(SL-1200/7を発売した)したのが大きいです。これからの時代は、明け方までやってるクラブとかじゃなくて、健全な昼間とかの野外イベントで本当に音楽を楽しみ、本当に音楽が好きな人が集まるようじゃないといけません。アメリカのLAでも0時までですよ。でも、最近は少しずつですが小さい子たちがDJに興味を持ち始めているようなんです。DJはちょっと遅れたけれども、ダンスの世界に近付いてきているんじゃないかなぁと思うんです。キッズダンスのように学校の授業にも入っているので。親もダンススクールに子供を通わせるように、これからはDJスクールへ通わせる親も増えるんじゃないですかね。 ―最後に、これからDJを目指される人に対して 自分が楽しいと思うことをやるのが一番だと思う。何事も壁にぶち当たると思うんですよ、その時に乗り越えるには好きなことじゃないとしんどいと思うんです。ニューヨークに住んでみたら全然違ったんです。”ノリ”が全然違った。僕はアメリカの人たちの技を盗もうと必死でしたが、彼らは個性を出そうと必死でしたね。なんでも必死にならないとダメかなぁ。 https://youtu.be/Z2QRmJ_Q-AA *既存の楽曲にリミックスなどを施し、それらを繋げて独自に作成した楽曲集。媒体がテープであるとは限らない。 インタビュー後記SHARKさんのDJプレイはとても繊細な指の動きで、まるでピアノを弾いているようでした。ご自宅の一角をご自身で改装されたスタジオはSHARKさんの音楽に対する姿勢そのもので、繊細でいておしゃれであり、かつ質実剛健な印象を受けました。音を聴く時の、一点を見つめる鋭い眼光から音楽への真摯な心意気を感じました。 DJ SHARK (でぃーじぇい・しゃーく)90年代初期からDJ、ターンテーブリストとして活躍し、96年Japan DMC Battleのウエストコーストチャンピオンに輝く。Technicsのターンテーブル、ミキサーの開発に協力し、企画から参加したTechnics初のHIPHOPDJミキサー『SH-1200』は、今も世界中のDJ達に愛されている。1999年、初の自身のアルバム"Inqbation"をMirror Ball/RC Recordsよりリリース。アフリカバンバーダの率いるZulu Nationのインターナショナル・ヒップホップ2000年の枠で2位に選ばれる。プロデュース業も幅広くこなし、レゲエやロックの方面でもプロデュースやリミックスを行う。ライブではバンバーダやQ-bert, Z-trip,Five Deezなどのオープニングも務め、2002年にはテクニクスの30周年イベントでスペシャルゲストとしてプレイ。その後ニューヨークに渡り、オールドスクールマンスリーパーティ『Back in da Days』をブルックリンで主催、数々のHIPHOPレジェンド達との共演を果たす。(GrandMaster Mell Mel, Grand Wizard Theodore, DJ Spinna, Large Professor, Rob Swift, DP-One, Jeru the Damaja等)日本へ帰国後、Back in da Days JAPANツアーを行い、NYよりJeru the Damajaをゲストに全国6カ所にBrooklyn旋風を巻き起こした。http://www.youtube.com/watch?v=B0D4Gxqfp9I2010年、NY生活の集大成的アルバム"Back in da Days VOL.1"、2011年には『Back in da Days Vol.2』をNORTH SETZよりリリース。Grand Master Flash京都公演、UMB (Ultimate MC Battle)@Liquid Room、B-BOY商店街@彦根、Keep it real主催 "Fun Kir"@横浜など、活動の幅を広げている。 LINK Twitter【 https://twitter.com/DJSHARK_JAPAN 】Instagram<DJ SHARK>【...

「DMC JAPAN DJ CHAMPIONSHIPS 2019 FINAL」レポート

8月24日にで開催された「DMC JAPAN DJ CHAMPIONSHIPS 2019 FINAL」に行ってまいりました! 当社は今大会のスポンサーをさせて頂きました! 当社のバナー。階段の目立つ所に貼っていただいておりました。 この大会はバトル部門とシングル部門にわかれており、それぞれの優勝者はロンドンで開催される世界大会の出場権を獲得します!! まずはバトル部門から。出場者は以下の8名です DJ EiON, DJ KENGO, DJ NE-NYO, DJOM, DJ YONE, DJ YU-TA, DJ 松永, DJ SHUNSUKE (敬称略) DJ SHUNSUKEはディフェンディングチャンピオンとして臨みます。人気者のDJ 松永の入場には一際大きな歓声が。 トーナメント表はこのようになりました。3回勝ち抜けば優勝です。 1回戦第1試合は DJ EiON 対 DJ NE-NYO! バトル部門唯一の女性DJとして会場を盛り上げましたが、 「パワーで圧倒する」と宣言したDJ EiONが勝利! 2回戦に進出です。 第2試合は DJ KENGO 対 DJ 松永! 煽るような視線を相手に向けるDJ 松永。 DJ KENGOが対戦相手の相方に変身し動揺も誘うも、、、 当人は意に介さず。 会場を盛り上げた一戦はDJ 松永に軍配!  第3試合は DJ OM 対 DJ YU-TA! 相手を煽らないDJ OMに対し、 イケイケな感じのDJ YU-TA。 接戦を制したのはDJ YU-TA! 第4試合は DJ YONE 対 DJ SHUNSUKE! DJ YONEも素晴らしいプレイでしたが、 デフェンディングチャンピオンのDJ SHUNSUKEが圧倒! 続いての2回戦第1試合 DJ EiON 対 DJ 松永 、第2試合 DJ...

こだわりの職人道具

レコード針の組み立てに欠かせないピンセット。大先輩から「朝ピンセットを持ったら、途中置くことなくずっと持ったままで作業したもんだ」と聞かされました。今は当時と変わり単一の仕事をし続けることがないのですが、なるべく置かないようにしているのかもしれません。 根元の開き具合を使いやすいように調整します。 買ったばかりのピンセットは(開き具合も)固いので根元を細く削って柔らかくします。両先がピタっと合っていないので、左右を削って合わせます。使っているうちに磁力を帯びてくるので、脱磁することも重要です。 両先がぴったり合うように削ります。 使いやすくするために先端を更に細く削ります。作業中うっかり落として先端が折れる事がありますが、その際も先端を削って合わせます。最後は何種類ものペーパーやすりで削ります。 ...

アナログレコードを愛する人々第6回 音楽之友社 「stereo」編集長 吉野 俊介 氏

第6回は、オーディオ誌「stereo」の若き編集長として活躍されている吉野編集長にインタビュー。ロックを愛してやまないという同氏。お小遣いは全てレコードに費やすそうです。 『ロックが子守歌でした』 ―早速ですが、吉野編集長にとってレコードとの関わりはいつ頃からですか? 喋れるようになる前です。物心がつくかつかないかの頃には、父が聞いていたレコードが家の中でずっと流れていました。50年代~70年代のジャズとロックが中心でした(笑)。 ―その後、音楽の嗜好は年齢と共に変化しませんでしたか? 僕にとってロックは子守歌みたいなもんだったんで。様々なジャンルを聴きますが、根幹にあるのはアメリカンロックです。 『自由な環境で好き放題やらせて貰っています』 ―編集長になられたのはいつ頃ですか? 昨年です。10年間ずっと「stereo」編集部にいまして、そのまま編集長になりました。 ―編集チームはピラミッド構造の組織ですか? 雑誌って4、5人くらいで作っているんです。それぞれが一人で取材しまくって。だから編集長とそれ以外の編集者といった組織です。この業界は歴史が長いので、筆者も編集者もみんな自分より年上の方ばかりです。 ―「stereo」誌に決められたカラーというか方向性みたいなものがあるとして、編集長になられて少し自分色を出したいといった自由度は許されているのですか? うちの会社って基本的にクラッシックの専門出版社なんで(僕は一切聴きませんが。笑)、オーディオ専門の人が少ないんです。オーディオ記事については、アンプがどうのこうのといった(オーディオ色の強い)マニアックな企画も通りやすく、自由な環境で好き放題やらせて貰っています。 『オーディオと音楽を繋げたい』 ―では雑誌の切り口を変えられたのですか? 従来のオーディオ雑誌のやり方として、オーディオ評論家によるオーディオ製品の評価記事を掲載するというのが中心でしたが、このご時世、そんなに何台も高級なオーディオを買い替えることってできないじゃないですか。なので、もっとユーザーの視点に立って、たとえば一般のマニアの人たちの家に行って、その人たちがどんな事をやっているのかというのを取材し、生活感あふれるリアルな部分で、音楽とオーディオの接し方みたいなものを重視して取り上げるようにしています。なので一般の方々を積極的に取り上げる様にしましたし、「音楽マニアだけどオーディオはそこまで」というライターやミュージシャンなどにも、オーディオを通して、録音と再生のクオリティを体験してもらうというようなことをこれからもしていきたいです。オーディオ評論ももちろんデータとして重要ですが、試聴室での厳密な比較だけではなく、生活空間というリアルな部分を出していきたいんです。音楽とオーディオって切っても切り離せないものだと思っているんですが、それがいつの間にか切り離されて、オーディオマニアと音楽マニアに線引きがあるみたいな。その両者をもう一度繋げたいんです。それしかないです。 ―オーディオマニアと音楽マニアという分け方をされましたが、男女というのはどうですか? 読者は99.9%男性です。だからまずは「奥さんと一緒にやろう」みたいな流れにしていきたいです。(オーディオは)男の密室の世界ですから。それを「リビングで一緒に聞こうぜ」にしたいんです。試聴室でじっくり聞くのも好きなんですが、そうじゃなくてもっと生活空間の一部にしたいんです。 音楽之友社のすぐそばにある、時間帯によって標識の方向が変わる珍しい交差点。 『朝起きたらまずレコードをかけます』 ―プライベートでのレコードとの関わり方はどんな感じなのですか? 朝起きたら先ずレコードをかけます。そうしながら朝ごはん作って。 ―朝からロックですか? 大体そうですが、ジャズやソウル、ブルース、アンビエント、なんでもござれです。まず目が覚めたら何を聴くか考えます。洋服みたいな感じでその時の気分です。朝ごはんを食べて、準備して、家出るまでずっとかかってます。 ―そして会社に来てからもまたレコードですか? そうですが、仕事モードになると聞き方が違います。音に集中して聞く聞き方です。家ではBGM的に聞き流すことが多いです。うちにはテレビはないし、オーディオだけ置いてあるって感じです。 ―テレビがなくても奥様は問題なしですか?オリンピックとかどうするのでしょうか? 問題ないみたいです。オリンピックはネットニュースを見るくらいで(十分でしょう)(笑)。 ―映像のライブ感(生中継)にはあまり必要を感じられないのですか? まぁ、見てもいいですけどね。どっちでもいいかなって感じです。とにかく中学生くらいから入ってくるもの(お金)は全部レコードに使って、バカみたいに聞いてきました。 ―今もなおですか? 今も小遣いは全部レコードです。 ―ジャケ買いもされますか? たまにしますね。でもジャケ買いで当たった事はほぼ無いです(笑)。 ―同じレコードを何枚も買われることはありますか? それはあんまり無いですね。状態が悪くて買い直すことはありますが、基本はオリジナル盤が1枚あればOKです。アメリカのミュージシャンだったらアメリカのオリジナル盤って感じです。あまり*マトリクスとかは意識していません。 音楽之友社 視聴ルームの機材。 『合う音楽が流れていたら、ラジカセでも良いんです』 ―仕事をされる前と今とでは音楽の嗜好は変わりましたか? いや基本は変わってないです。環境から不意打ち的に、クラシックでいいなぁと思う事もあるのですが、核となるものは子供の頃から変わらないですね。 ―プライベートでオーディオ機器自体も買い替えたりされるのですか? 故障した場合とか、これは面白い!と思うものに出会うと買います。 ―ではハイレゾについてはどうですか? 僕が聞く音楽が60年代から70年代くらいのものなので、当時のマスターテープはもちろんアナログでした。それらの音源を無理やりデジタル化してハイレゾにしても違和感があるんですよね。最新の音源を聞くんだったらハイレゾはいいと思います。だから自分にはほぼ必要ないんです。デジタルだったらCDが気楽に扱えるのでCDでいいかなという感じです。基本的にパッケージものが好きなんで。メディアの形態がどうであっても、自分の好きな音を自分で探すというのは本当に面白いですよ。そうすることでどんどん音楽に入り込んでいくんで。その多様性、選択肢がオーディオの面白さでもあります。 ―カセットができたから、CDができたからといった様に、聞けるオーディオ環境が変わったから、音楽も変わってきたと言えるでしょうか? それは間違いなくあるでしょうね。でも正直、僕にとって、進化して音が細かく聞こえるようになった、とかいうのはどうでもいいんです。別にラジカセでもいい音楽というか、それに合う音楽が流れていたら良いわけで。今、そういう時代に入ってきているんじゃないでしょうか。音楽ってやっぱりグルーヴじゃないですか。 ―SpotifyとかAmazon musicのような最近の音楽配信サービスについてどう思われますか? 僕も結構利用していますよ。移動中なんかにも聞いて、これは!みたいな楽曲に出会うとレコード探します。自分が知らなかった音楽を(自分の嗜好傾向から)教えてくれるし。別にアナログ原理主義者でもなんでもないですから(笑)。味見みたいなもんです。ツールとして使いようだと思っています。 『一度オーディオを辞めていた人が戻ってきている』 ―「stereo」誌に10年間いらっしゃってみて、読者のニーズが変わりましたか? オーディオ業界は斜陽産業だと言われてきてますが、実は、最近「stereo」は上がってきてるんです。一度オーディオを辞めた人がまた戻ってきているという現象が起きてます。 ―まだまだレコードもいけるという認識でしょうか? 全然いけるんじゃないでしょうか。いくらでもやることがあると思います。音楽を聴く人がいなくなることは絶対ないと思うので、つまりオーディオもなくなる事は絶対ないので。 ―生のライブ演奏にはよく行かれるのですか? 最近は積極的には行かないかもしれません。ライブハウスの**PAから出てくる音というのもやっぱりオーディオじゃないですか。でもああいう所の音ってなんか疲れるんです。過剰なコンプレッサーは、音楽をジャンクフードにします。音楽を聞いて癒されたいのにしんどくなるのはどうも。(音量の)刺激は僕には必要ないんで。若い時はいいんですがね、30歳を過ぎるともういいかなって感じです(笑)。今は音楽の聞き方にも選択肢が多いし、どれも否定はしないです。ただ無料で聞いている若い人たちが多いけど、ちゃんと吟味してお金だして聞いてほしいと思います。YouTubeとかで聞いた気になっているのかもしれませんが、やっぱり、お金を払ってレコードなり、CDなり、ハイレゾなりで、自らのリスクを背負ってちゃんと聞いて欲しいです。ただ聴きで評価しちゃダメです。 ―吉野編集長からJICOはどんな風に見えているでしょうか? 今までは交換針を供給してくれている工場というイメージでした。これからはひとつのブランドとして育っていく可能性を感じます。JICOにしか出来ない事があると思います。 ―ありがとうございます。責任を感じます。ではお気に入りの1枚を紹介して下さい。 やはりこれです。グレイトフル・デッドの「Aoxomoxoa」。 https://youtu.be/Mpk-9pHQ-po *ここではマトリクス番号のことを指す。レコード盤を製造する際につけられる金型番号のこと。 **Public Addressの略で、音響機器のこと。マイク・アンプ・スピーカーなど、機器全般をまとめて指す。 インタビュー後記 無類のレコード好きである若き編集長は、オーディオと音楽の間に架け橋を築くという野望を燃やす情熱家でもあります。その語り口は至ってソフトですが地に足がついた現実主義者でもあると感じました。プライベートでのレコードコレクター活動も含め、「自分のやりたい事をやらせて貰ってるんで家内には感謝してます。」と話す横顔に「音楽のもののふ」の様な相貌を垣間見た気がしました。 吉野俊介 (よしの・しゅんすけ) 音楽之友社月刊ステレオ編集長。1985年生まれ。親の影響から幼少期から大型スピーカーやレコードがある環境で育つ。中学生からバンド活動とレコード蒐集に目覚め、3度のメシよりレコードという生活を送り今に至る。月刊ステレオには、大卒後の10年前にアルバイトで入社。好きなレコードが、最高の音で聴けるという天職に就く。ジェリー・ガルシアを信奉している。 ...

当社工場の職人へインタビュー(5)

名前:Y.T 勤続年数:11年 担当:梱包、カンチレバー加工、チップマウント 大切な商品がケースの壁にあたって破損しないように、ドーム型のカバーに入れて固定します。 - やりがいを感じる瞬間は? 丁寧な梱包をしたものをお客様へ発送出来て、お客様の手元に届いたときです。また、カンチレバーの加工およびチップマウントでは、一番最初の工程なのでとても責任を感じます。 印刷物が間違っていないか、ゴミが入っていないか、全て細かくチェックしてからふたをします。 - 難しい作業は? 梱包の際は、ケースに傷がないか、ゴミやほこりが入っていないか、品番に合った印刷物がちゃんと入っているかなど間違いが許されないことです。カンチレバーの加工では、傷を付けて不良品を出さないようにすること、チップマウントでは方向を確認して垂直に取り付けることに意識を集中しています。 テープも真っすぐピシッと貼ります。 ...

レコード針総選挙

レコード針に関わるスタッフに、外観だけで好きな針を選んでもらいました。 🥇第1位 EPS-24CS(36-U24) [National/Technics] 針製造担当(11年)   Y.T.「色が綺麗で好きです」 ノブ成型担当(8年) K.I. 「色が綺麗」 外注担当(52年)       S.N.「みかん🍊みたいで綺麗」 🥈第2位 EPS-270SD(36-270) [National/Technics] 音検査担当(15年) M.T.「綺麗だから」 東京支店     S.N. 「色が綺麗だから」 以下は同列となりました。 DT-Z1EB(30-Z1EB) [Victor] ノブ成型担当(21年) K.K.「色が鮮やかで好き」 N97xE(192-N97xE) [SHURE] 針製造担当(13年) M.M.「かっこいい。青と黒のバランスも好き」 N44-7/DJ(192-44-7/DJ) [SHURE] 針製造担当(4年) K.S.「1日1回は見かけ、毎日手にしているからか、愛着がわいています」 EPS-205EX(36-205EX) [National/Technics] 製造マネージャー(10年) T.O.「ゴールドの存在感がハンパない」 PN-12(53-12) [Pioneer] 技術顧問(53年) K.M.「同じ型で兄弟の様に色違いもあり印象に残っています。形が好きです」 VN45HE(192-VN45HE) [SHURE] 技術マネージャー(15年) S.Y.「武骨な感じが好きです」 DT-32(30-32) [Victor] 東京支店 R.S.「色が可愛いので」 BF-40(182-40) [RONETTE] ※国内向けには販売しておりません 東京支店 S.S. 「形が可愛いから」 PN-200(53-200) [Pioneer] 東京支店 U.Y.「お菓子みたいでおいしそうな色がかわいいです」 S-500ID(241-500E) [EMPIRE] 東京支店 Y.Y.「昔のゲーム機みたいな色でかわいいから」 以上でした!! 材料の段階では、命のないモノであったとしても、作る人が命を吹き込み、愛情をかけて初めて製品になるのだと思えた今回の企画でした。 ...

アナログレコードを愛する人々第5回 Turntable Troopers ENT. 代表取締役 DJ $HIN氏

第5回は、「Turntable Troopers ENT.」代表取締役のDJ $HIN氏にインタビュー。DJ/プロデューサーとしても活躍し、日本のDJ界を牽引されてきました。 『すぐにターンテーブルを買いに行った』 −音楽に興味を持ったのは? 一番古い記憶は「およげ! たいやきくん」のレコードです。子どもの頃、おじいちゃんのステレオでよく聞いていました。「ホネホネロック」とか(笑)。それと6歳上のいとこのお姉ちゃんが洋楽好きで、いつもカセットテープに最新ヒットソングを自分で編集して僕にくれてたんです。だから小学生からずっと洋楽ばかり聞いていましたね。 −DJをやってみようと思われたのは、いつ頃ですか? 高校2年生の時、まだ日本に入りたてだったスノーボードがしたくてスキー場のアルバイトに応募して長野県栂池のディスコでウェイターをしました。その頃まだ僕はダンスに夢中で、昼はスノーボード、夜はダンス、バイト代ももらえるしで、毎日最高でした(笑)。そこに同じ大阪から来ていたDJさんと仲良くなって「いつも、そこに立ってなにをやってはるんですか?」と尋ねたんです。そしたら親切に教えてくれて「これは、すごい!」となり、大阪に帰るなりバイト代と貯金を握りしめターンテーブルを買いに行きました。 『スクラッチとの出会い』 −衝撃を受けたのですね。 はい。大阪に帰ってターンテーブルを手に入れてから、DJの見習いに行きたいと思って長野で一緒だったDJさんに相談したら、「じゃあお店紹介してあげるわ」となって、見習いとしてDJをスタートしたんです。*ディナスティというディスコで働くことになり、初めてついた師匠がスクラッチが大好きな人だったんです。その方が僕に初めて**DMCの世界大会のビデオを見せてくれたんです。それで超感動してスクラッチってスゴイ!となって、そこからはずっとスクラッチです。ディナスティが閉店する時に師匠が「自分は家業を継ぐから、お前はツレのDJのところに丁稚奉公へ行け」と(笑)。その通りに丁稚奉公へ出るんですが、それがその当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのGM-YOSHIさんだったんです。 『天才であってもすごく努力している』 −Turntable Troopers ENT.を立ち上げられたのは、いつ頃なんですか? 若い頃から独立心は強かったですね。生意気だったと思います(笑)ただ若い頃は金もなかったんで、少しずつ貯金したりして(笑) 2003年に立ち上げました。 −今までにスクールで教えられた生徒数は、どれくらいいらっしゃいますか? 最初はDJスクールを楽器屋さんと組んで企画としてやってたんです。その後また別のスクールを立ち上げたり、その頃でも生徒数は250人近くいました。ある時、専門学校でDJ科を立ち上げるんでとお声をかけて頂き、講師を務めました。6年間くらい務めましたね。独立してからは16年ですが講師としては20年以上になるんで、はっきりとした数字はわからないですが、1,000人ぐらいだと思います。 −すごい人数ですね。生まれつきのセンスを持っていると感じた生徒さんはいらっしゃいましたか? いませんね。どれくらい続くかなとシビアな目で見てるんですよ。”化ける”という言い方をしますが、思いもよらない人が急に馬力を出すんです。僕の知る限り天才は***RENAくんぐらいかなぁ。天才であっても、もちろんすごく努力していますよ。 『ターンテーブリストとしての気概』 −ターンテーブリストという表現はいつ頃からあるんでしょうか? 1990年代の半ばに、アメリカの****ビートジャンキーズのメンバーであるDJ Babuが最初に言ったとされています。それまではDJとかスクラッチャーとか言ってましたね。 −ターンテーブリストとしての自負というか、PCを使用しないアナログDJとしての気概ってありますか? ターンテーブリストと名乗るのであれば、人一倍上手にターンテーブルを扱えないとダメだと思うんです。バンドにターンテーブリストとして参加する時にどんなパフォーマンスができるのか、歌手のバックDJをする時にどんなパフォーマンスができるのかとか、その時々で求められる技術は違うと思うんです。自分が思っていることができるように、日々鍛錬しておかないとダメだと思います。 −$HINさんご自身は、毎日ターンテーブルを回されているのですか? スクールでレッスンがあるので、今でもほぼ毎日触ってます。自宅にいるときはぼけーっとゲームとかしてますけど(笑)。 −ご自宅にもターンテーブルが? 置いてますよ。いつ何時アイデアが降りてくるか分からないので。 −今までに購入したレコードは何枚ぐらいですか? 何枚ぐらいなんですかねぇ。数えるんでちょっとだけ待っててもらえますか?(笑)。でもキャリアの割に僕は少ない方だと思うんですよ。なんで少ないかと言ったら、コンテストに出るための練習には基本2枚あれば事足るんですよ(笑)。それが何ペアかあればずっと練習しているので。それでも、ざっと10,000枚くらいはあると思います。 『夢のおもちゃ』 −昨今のDJ業界というか、ご自身を取り巻く環境についてお聞かせください。 1980年代にスクラッチが日本に入ってきて、先輩方が色々と試行錯誤を繰り返されたのを僕たちが継承して伝えている訳なんですが、今はポータブルレコードプレーヤーでスクラッチが出来る。いわゆるおもちゃですよね。”おもちゃ以上プロ仕様未満”がちょうどいいんですよ。1960年代以前からポータブルのレコードプレーヤーはありましたが、それに*****フェーダーを付けるだけで楽器になっちゃったんです。これが僕らからすると”夢のおもちゃ”なんですよ。小さい頃から子ども達に、こういうので楽しく遊んでもらって、プロのDJを目指してもらえたら嬉しいです。ただ、もっとDJの仕事ができる環境が増えればいいなとは思いますね。 『かっこいいと思う方向へ』 −スクールだけに留まらず、製品企画や楽曲制作など様々な活動をされてますね。 そう言われればそういう人はあまりいないですね。珍しいタイプだと思います(笑)誰もやった事無い事をするのが好きなんですよ。興味があることにはとことん突っ込んでやります。製品の企画とかも自分が好きで(DJを)やっているので、こんなの欲しいな的なアイデアはいくらでも出てきます(笑) −DJスクールの在り方についておしえてください。 お金を持っている企業がスクールなどをやりだしましたが、二つの方向へ分かれて行ってると感じますね。ターンテーブリストがやってるスクールとそうじゃない人がやっているものとではレッスン内容が大きく違います。でも、それぞれがかっこいいと思う方向へ行ったらいいと思います。クラブやフェスとかで盛り上げる方が良いと思えばそっちへいけば良いし、僕らみたいにコンテストやバトル、寡黙にスクラッチをやっているのがかっこ良いと思えばそれで良いと思います。 −ご自身がDMCなどの大会に出場されていたのは? 1993年あたりから1999年にかけてです。 −その当時はDJの大会は、どんな大会がありましたか?また、日本人のDJはどんな感じだったのでしょうか? 今残っている大会はDMCぐらいじゃないですかね。その当時から日本人は本当に努力してきて、GM-YOSHIさんやDJ HONDAさん、DJ TA-SHIさん等、世界にランクインされている方もいらっしゃいました。みなさん努力家で繊細ですね。今ではDMCでも常勝国として認知されるほどになりました。 『自分を信じて、自分のスタイルで』 −これからDJを始める方やプロDJを目指される方へコメントをください。 技術的なものは、独学よりも習う方が良いと思います。身につけた技術をどう使うかなんです。他人のスタイルを参考にするのは良いですが、それを真似るのではなく、自分を信じて自分のスタイルでやるべきです。人に流されると二番煎じ、三番煎じになってしまう。誰もやっていない事をやる方が良いです。 https://youtu.be/UScAlzi6dQs *1985年に大阪宗右衛門町にあった、ステーキが美味しいと評判だったディスコ**世界一のDJを決める大会***若干12歳にして「DMCJAPAN2017」を制覇し同年10月にロンドンで開催された”DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIP”に出場し過去最年少で世界王者になったDJ****1992年に南カリフォルニアで結成されたDJ、プロデューサー集団*****DJミキサーなどに用いられている音量やエフェクトの出入力のレベルなどを設定するツマミ。ここでは、2つのチャンネルを切り替えることができるポータブルクロスフェーダーのことを指す。 インタビュー後記 DJに対しての昔からの一般的な既成概念を覆させられました。なにか、噺家の世界観を彷彿とさせるような経歴と思想、そして日本のDJ業界に対してしっかりとした持論と教養も持ち合わされておられたのに驚きました。今まで個人的に抱いていた「チャラチャラとして不健康そう」というイメージとは正反対でした。なにより先人達に対しての尊敬を忘れず、いつも謙虚な姿勢に頭が下がる思いがしました。$HINさんのお人柄が凝縮された取材になりました。 Turntable Troopers ENT.代表取締役/DJ/プロデューサー DJ $HIN (でぃーじぇい・しん) 幼少の頃より洋楽を耳にする環境の中で育ち、10歳からブレイクダンスを始める。1990年DJに目覚め、1991年よりプロのDJとして活動をスタート。同時にDJバトルにインスパイアされ、そして参戦。数々のタイトルを奪取、西日本チャンピオンを4度経験し、1998年には日本第2位まで上り詰め、翌年1999年、DMC日本代表となった。それと同時に、K.O.D.P.のBooなども在籍したS.B.S.のDJとして、Word Swingaz/FutureShockのライヴDJとしても活躍。名曲Shingo2/E22との”Pearl Harbor”などのトラックメイカーとしても知られる。さらには数々のテレビ番組にも出演、FMラジオ番組のレギュラーも務めた。2003年にはCREWの名を一部に冠したレーベル、“Turntable Troopers ENT.”(T.T.E)を立ち上げ、第1弾音源ともなるソロアルバム『World Famous』をリリース。その後、『SAMURAI BREAKS』、『BANZAI BREAKS』、『KAMIKAZE SKIPPROOFS』など、次々にリリース。どれも国産バトルブレイクス史上記録的なセールスで、今もなお記録更新中である。最近ではDJスクール、音楽専門学校など若手育成やプロデュース活動に重点を置き、そのスキルを発揮している。まさに日本DJ界の『PIONEER』的存在。 LINKTwitter【 https://twitter.com/djshin1200 】Instagram【https://www.instagram.com/djshin1200/】Blog【 http://ameblo.jp/skratch/ 】Turntable Troopers ENT.【 http://tte.jp 】...

アナログレコードを愛する人々第4回 有限会社モル・ティム 代表取締役 田宮 守氏

第4回は、青山キラー通りのイタリアのヴィンテージ・バイク専門店「HIPHIPSHAKE」の田宮氏にインタビュー。以前は同じ場所でヨーロッパ音楽専門のレコードショップを経営されていました。 『「アメリカ」イコール「憧れ」だった幼少時代』 ―田宮社長は以前にこちらでレコード店を経営されてたと伺いましたが? フレンチのビンテージレコード専門店です。ここと吉祥寺大通り沿いにもうひとつ店舗を持っていました。 ―それはシャンソン専門店って事でしょうか? シャンソンと、アメリカのポップスに影響を受けたフレンチポップスですね。ゲンスブールとかあの辺です。上客には90年代に有名アーティストを次々と手がけた著名な方々もいらっしゃいましたよ。レコードは探して来なきゃ商売にならないんで大変だったんですが。 ―どうやって買い付けられていたんですか? レコード市ですね。パリに行ってもだめです。レギアノ村って言ったかなあ。町中でワインオープナーだけを作っている所があって、そのだだっ広い広場で開催されるレコード市とかですね。 ―最初からフレンチポップスがお好きだったんですか? いえ、最初はイギリスやアメリカの、たとえばジーン・ヴィンセントやリトル・リチャード、オーティス・レディングとか。自分でBELLETS(ベレッツ)というバンドをやってまして。同期には80年代に活躍した著名なバンドもいましたが、当時は僕らが当時飛びぬけて売れてましたね。ライブをやるとドイツの国営放送とかが取材に来たりして。アメリカの50年代をやるなんてどんな日本のバンドなんだと。 HIPHIPSHAKEの外観。レコードショップ時代からほとんど外観は変わっていないのだそう。 ―田宮社長のサブカルチャーにおけるルーツはどこにあると思われますか? 母親が音楽やってたのが大きかったですね。江利チエミさんの伴奏をやってたり。江戸の職人の娘なんで、当時は芸能界に入るなんてご法度で、何年も勘当同然だった様です。僕はパット・ブーンとかを普通に家で聞いてる子どもだった。サザエさんを見たいのにテレビを消されてしまって。フォークとナイフでキャンドル立てて、完全にアメリカかぶれのライフスタイルでした。 ―それは東京というか、原宿、青山という土地ならではですかね? この辺は進駐軍のベースキャンプでしたからね。代々木公園にワシントンハイツという官舎が建ち並んでましたから。街全体がアメリカかぶれでしたね。下町の子達に言われたもの。「渋谷はアメリカみたいだ」って。敗戦の傷が癒えずアメリカを敵視していた人たちもまだ沢山いましたが、学校から帰るとアメリカのホームドラマが流れていました。僕らは「アメリカ」イコール「憧れ」みたいに洗脳されちゃってましたね。「ルート66」とかでかっこいいアメ車が出てきたら、もう子供なんか完全に憧れちゃいますよ。 『好きだったものを死ぬまでやろうと思っている』 ―どうして今、ビンテージのイタリアの自転車を扱われているのですか? その前はジーンズとか、古着を売っていたんです。 50’s(フィフティーズ)っていうんですが、ヤンキーでもロックンロールでもなくアメリカン50’sカルチャームーブメントを70年代の後半に作っていました。 村八分の初代ドラムの村瀬茂人さんが、当時サンフランシスコで和骨董と和家具のお店をやっていて「アメリカの古着を日本に持っていったら凄いことになるぞ」と教えてくれたんです。そこで僕はアメリカに仏像等を持ち込み、帰りは古着を持ち帰ったんです。みんなあの頃僕の古着屋に来てインスパイアされていました。そんなことを続けていたら古着はもう極めてしまって。その内みんなが古着古着って言いはじめて嫌になってしまい、自転車屋になりました。小学生の時にイタリアのLEGNANO(レニアノ)というブランドのロードバイクを買ってもらっていて。僕は子供の時に好きだったものを死ぬまでやろうと思っているので。始めた頃はイタリアの自転車なんかなくて、自転車屋は3Kと言われ嫌われる現場のひとつだったんですけどね。 ―一日の中で音楽との関わりってどんな感じですか? 店内は昔のFEN。今で言うAFN(American Forces Network)。米軍放送です。家に帰ると50’sやフレンチポップスのCDを主に聴いています。 ―20代でバンドを辞められたとのことですが、なぜですか? もうつまんないから。みんなが「俺も」ってやり始めると、嫌になっちゃうんです。 ―人生に別れ道というか、選択しなければならない時ってありましたか? ないです。好きなことやりますから。己との葛藤はありますよ。「何が一番好きだったんだろう」って。 HIPHIPSHAKEファンのイタリア人イラストレーターの方に描いていただいたイラストとのこと。店内に大事に飾られている。 『職人としての気位』 ーお客様にはどんな方がおられますか?  企業のオーナーとか、元官僚トップとかはいらっしゃいますね。上は85歳で現役がいますよ。ここから富士山の5合目まで行って帰ってきます。みんな往復で200kmとか250km走りますね、1日で。だからロードレーサーというのは軽くて丈夫で、ある程度スピードも出せて遠くまで走れるっていう乗り物じゃないとダメなんです。 フロントディレイラー(変速機)と呼ばれる部品。 ―たとえば富士山付近まで往復したりすると途中でどこかが故障したりしないんですか? それがありえるから大変なんです。200kmを往復するような方が、僕のミスで落車して大怪我する可能性はゼロじゃないと思ってるんで。そういうリスクを背負う気位ですよ。僕のは1年間は平気ですね。壊れないメンテナンスの仕方ってあるんです。 ―それも買った方に教えられるんですか? 教えません。プロゴルファーだってコツを素人に教えるだけであって。プロがプロのやり方を教えたら自分が喰われちゃうじゃないですか。自転車も半年、1年後に「いやぁ大変だったよ」って乗った人が言うのがいいんであって、それまで僕らは我慢しなくちゃいけない。映画を観る前に結末を教えちゃいけないのと同じですよ。5年後、10年後に気が付いてくれるお客さんがいるから、リピーターになるんです。旋盤屋に「この部品はこの金属のブレンドで硬度はこれで作って下さい」って指示して、ネジ1個から全部作るんですよ。ネジ1個なかったら自転車って走れないんですから。 ―1台も同じものはないということですか? 指紋と同じで、1台たりともないです。双子が生まれて自転車2台買って乗り出しても、二人は違う道路、環境を通るんでタイヤの減り方から違いますよ。 ―自転車のフレームはイタリアまで買いに行かれるんですか? ミラノですよ。発祥の地です。作った人全員に会いに行きます。火の入れ方なんかも職人によって違うので。師匠から弟子の名前も4、5人位は聞いて覚えておきますね。工場では職人たちがが右利きか左利きか全部メモってます。聞いたことも全部録音して。イタリア語でもすごく訛ってるから、通訳に後で聞いても分らないんですがね(笑)。 ―自転車の修理もされるんですよね? ここで買ってないものでもでしょうか? それは全然OKです。何百万もした自転車の延命措置を頼まれるんです。僕が人間のお医者さんだったら大変ですよ。持ち込まれる自転車は末期がんクラスの患者ですからね。それを治して何十年も乗れるようにするわけだから。電子顕微鏡で見たりもしますが、そこから先は勘です。勘に勝るものはないです。 ―1台オーバーホールするのにどのくらいかかるんですか? ものによっては1~2年です。全部バラして。オートメーションじゃないんでね。 *音叉で部品を叩き、共鳴する音でホイルに緩みなどがないか確認する。 ―1年間に関わられる自転車って何台くらいなんですか? 3ケタです。簡単な電話対応のものも含めてですが。「どんな音がどの辺からしてますか?」みたいなね。 ―今日は社長からモノづくりの気概みたいなものを教えて貰った気がします。 名選手がいても、それを支えるメカニックや職人さんがいないと成り立ちません。こういうことが僕の中では大事なんです。 『好きなものを見つけたらとことん行け』 ―お話を伺うと、歳を重ねる醍醐味みたいなものを感じますね。 アメリカにも「old gold」って言葉があって、歳を取れば取るほど金の価値に近づいていくということなんです。みんな踊らされちゃってんのがたまならなく辛いですね。やっぱり好きなものを見つけたらとことん行けと。きっかけってみんな気が付かないんですよ。それに気が付かないで、自分で自分を潰しちゃうんですよね。好きだったら、続けること。ひとの100倍練習する。100倍深堀りするってことじゃないでしょうかね。 ―それではお気に入りのアナログレコードを1枚を教えて下さい。 スティービー・ワンダーがリトルスティービーと呼ばれてた頃の「UP TIGHT」というアルバムです。1曲目の「ラヴ・ア・ゴー・ゴー」が秀逸ですね。 https://youtu.be/EDD1TaQvvq8 *U字形の鋼棒の中央突端に柄(え)をつけたもの。たたいて音を出し、音の共鳴・振動数の実験、楽器の音合わせなどに用いる。 インタビュー後記 田宮社長はご自分で青原(あおはら;青山・原宿界隈をこう呼ぶ様です)の「番長」と自称されたのですが、ルーツが仏師や宮大工にあると伺ったせいか、お話しを聞きながら銭形平次や江戸火消しの棟梁をイメージしていました。米軍放送が流れる店先にどんと構える、サブカルチャーの「親分」。音楽も含めたモノづくりにおいて、その背景を紐解き、加工法や素材の必然性を徹底的に突き詰め、職人魂の炎を燃やし続ける本物の大人です。とにかく話しが広く深いので魅了されっぱなしで、界隈は勿論の事、世界中から訪れる本物志向のお客様は時に怒られながらも「大人の寺子屋」に日毎通うのが頷けるひとときでした。 有限会社モル・ティム(HIPHIPSHAKE)代表取締役 田宮 守(たみや・まもる) 学生時代、まだマイナーな存在であった1970年代の原宿で、アメリカ1950年代ファッションのムーブムントを仕掛ける。アメリカのビンテージ古着の豊富な知識を元に、セレクトショップで働くため渡米。デニムや旧アロハ・ミリタリー、時計、シューズ、50年代のレコード等を買い付け、現代の古着文化を確立させる。アメリカの移民カルチャーを学び、60年代のヨーロッパ音楽を扱うレコードショップ「メイド・イン・フランス」を原宿にオープン。その後、イタリア・ミラノの伝統文化であるビンテージ・ロードレーサー専門店「HIPHIPSHAKE」を原宿にオープンし、現在に至る。 HIPHIPSHAKE:https://www.facebook.com/pages/category/Company/hiphipshake-270298649652880/ ...

当社工場の職人へインタビュー(4)

名前:E.M 勤続年数:16年 担当:ゴム成型全般(レコード針の部品としてはダンパーゴム) ダンパーゴムが金型からきれいにはずれるよう型が熱いうちに木べらでこすります。 - やりがいを感じる瞬間は? 注文が沢山来て、自分が生産したものがレコード針としてお客様にご購入していただけた時です。 ダンパーゴムを傷つけないよう丁寧に金型から押し出します。 - 難しい作業は? *バリをきれいに取り除いて、きれいな部品の状態で後の工程に渡すことです。 *バリ:成型時に生じる不要な部分。 歪みなくきれいに穴が空いているか一つ一つチェックします。 ...

蓄音機のはなし

当社本社のある兵庫県浜坂は、1800年頃に縫い針産業が興り、1870年ごろには日本国内で最も盛んな地域として有名でした。当社も1873年(明治6年)この縫い針の生産で創業しています。しかし、1910年ごろ(明治時代末期)には、その生産数は激減していきました。 そんな中、幸運にも明治10年(1877年)にエジソンが蓄音機を発明しました。翌年には日本にも紹介され、1909年(明治42年)日米蓄音器製造株式会社が日本初の円盤レコードと円盤式蓄音機の製造をはじめました。円盤型レコードをトレースするのは鋼鉄針です。縫い針生産で行き詰まっていた浜坂製針業界は、この鋼鉄針の生産に取り組みます。やがて日本一の生産地となり、戦前には国内のみならず海外40か国に輸出していました。 全く未知の蓄音機針の生産に挑戦するということは並大抵なことではなかったと思われ、その苦労が偲ばれます。レコードの針にも、太い針、柔らかい針、先端を潰したような針、メッキを施した針など多くのものがあり、それぞれ違う音を聴くことができます。鋼鉄針は、LPレコード用のダイヤモンド針に比べて柔らかく、すぐに摩耗してしまいます。音溝の中で針が摩耗すれば徐々に盤面に近づき、ついには音溝の底をガリガリと削ってしまいます。柔らかい針では1面演奏するたびに1本の割合で針の交換が必要です。 初期の蓄音機のホーンは、ラッパ型で筐体の外付けになっていますが、時代が進むにつれ筐体の中に組み込まれるようになりました。その素材は、木質や金属、紙、陶製など様々なものが使用さています。動力はゼンマイ式で、全く電気は使用しないので、ボリューム調節もできませんが、後期には電動蓄音機(電蓄)も登場しています。蓄音機は、レコード針で音溝をトレースする際、針が左右に振れます。その振動がサウンドボックスに伝わり、*雲母(初期)、**ジュラルミンなどの***ダイヤフラム(振動板)の振幅によって空気振動、音波としてホーンを通じて機外に出ています。このサウンドボックスは蓄音機の心臓部とも言われる部分です。 当社では、3か月に一度蓄音機の試聴会を行っており、2019年6月に25回目を行いました。会場はJR浜坂駅前の「まち歩き案内所」という蔵を改造した会場で毎回30人~40人の参加者です。参加者の皆さんは、遠い記憶でしかなかった蓄音機の音によって、聴いている曲と昔の思い出があいまって浮かび上がり、心豊かに会場を後にされています。現存する国産の蓄音機は製造後概ね90年前後経過していると思いますが、世の中には90年たっても人の心を動かすことができるものってそう多くはないと思います。アナログ音楽の原点である蓄音機をこれからも大切にしていきたいです。 *鉱物の一種、マイカとも呼ばれる。**強度に優れたアルミ合金。***針の振動を空気の振動に変換し、音波を放射する役目を担う。 ...