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アナログレコードを愛する人々第5回 Turntable Troopers ENT. 代表取締役 DJ $HIN氏

第5回は、「Turntable Troopers ENT.」代表取締役のDJ $HIN氏にインタビュー。DJ/プロデューサーとしても活躍し、日本のDJ界を牽引されてきました。 『すぐにターンテーブルを買いに行った』 −音楽に興味を持ったのは? 一番古い記憶は「およげ! たいやきくん」のレコードです。子どもの頃、おじいちゃんのステレオでよく聞いていました。「ホネホネロック」とか(笑)。それと6歳上のいとこのお姉ちゃんが洋楽好きで、いつもカセットテープに最新ヒットソングを自分で編集して僕にくれてたんです。だから小学生からずっと洋楽ばかり聞いていましたね。 −DJをやってみようと思われたのは、いつ頃ですか? 高校2年生の時、まだ日本に入りたてだったスノーボードがしたくてスキー場のアルバイトに応募して長野県栂池のディスコでウェイターをしました。その頃まだ僕はダンスに夢中で、昼はスノーボード、夜はダンス、バイト代ももらえるしで、毎日最高でした(笑)。そこに同じ大阪から来ていたDJさんと仲良くなって「いつも、そこに立ってなにをやってはるんですか?」と尋ねたんです。そしたら親切に教えてくれて「これは、すごい!」となり、大阪に帰るなりバイト代と貯金を握りしめターンテーブルを買いに行きました。 『スクラッチとの出会い』 −衝撃を受けたのですね。 はい。大阪に帰ってターンテーブルを手に入れてから、DJの見習いに行きたいと思って長野で一緒だったDJさんに相談したら、「じゃあお店紹介してあげるわ」となって、見習いとしてDJをスタートしたんです。*ディナスティというディスコで働くことになり、初めてついた師匠がスクラッチが大好きな人だったんです。その方が僕に初めて**DMCの世界大会のビデオを見せてくれたんです。それで超感動してスクラッチってスゴイ!となって、そこからはずっとスクラッチです。ディナスティが閉店する時に師匠が「自分は家業を継ぐから、お前はツレのDJのところに丁稚奉公へ行け」と(笑)。その通りに丁稚奉公へ出るんですが、それがその当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのGM-YOSHIさんだったんです。 『天才であってもすごく努力している』 −Turntable Troopers ENT.を立ち上げられたのは、いつ頃なんですか? 若い頃から独立心は強かったですね。生意気だったと思います(笑)ただ若い頃は金もなかったんで、少しずつ貯金したりして(笑) 2003年に立ち上げました。 −今までにスクールで教えられた生徒数は、どれくらいいらっしゃいますか? 最初はDJスクールを楽器屋さんと組んで企画としてやってたんです。その後また別のスクールを立ち上げたり、その頃でも生徒数は250人近くいました。ある時、専門学校でDJ科を立ち上げるんでとお声をかけて頂き、講師を務めました。6年間くらい務めましたね。独立してからは16年ですが講師としては20年以上になるんで、はっきりとした数字はわからないですが、1,000人ぐらいだと思います。 −すごい人数ですね。生まれつきのセンスを持っていると感じた生徒さんはいらっしゃいましたか? いませんね。どれくらい続くかなとシビアな目で見てるんですよ。”化ける”という言い方をしますが、思いもよらない人が急に馬力を出すんです。僕の知る限り天才は***RENAくんぐらいかなぁ。天才であっても、もちろんすごく努力していますよ。 『ターンテーブリストとしての気概』 −ターンテーブリストという表現はいつ頃からあるんでしょうか? 1990年代の半ばに、アメリカの****ビートジャンキーズのメンバーであるDJ Babuが最初に言ったとされています。それまではDJとかスクラッチャーとか言ってましたね。 −ターンテーブリストとしての自負というか、PCを使用しないアナログDJとしての気概ってありますか? ターンテーブリストと名乗るのであれば、人一倍上手にターンテーブルを扱えないとダメだと思うんです。バンドにターンテーブリストとして参加する時にどんなパフォーマンスができるのか、歌手のバックDJをする時にどんなパフォーマンスができるのかとか、その時々で求められる技術は違うと思うんです。自分が思っていることができるように、日々鍛錬しておかないとダメだと思います。 −$HINさんご自身は、毎日ターンテーブルを回されているのですか? スクールでレッスンがあるので、今でもほぼ毎日触ってます。自宅にいるときはぼけーっとゲームとかしてますけど(笑)。 −ご自宅にもターンテーブルが? 置いてますよ。いつ何時アイデアが降りてくるか分からないので。 −今までに購入したレコードは何枚ぐらいですか? 何枚ぐらいなんですかねぇ。数えるんでちょっとだけ待っててもらえますか?(笑)。でもキャリアの割に僕は少ない方だと思うんですよ。なんで少ないかと言ったら、コンテストに出るための練習には基本2枚あれば事足るんですよ(笑)。それが何ペアかあればずっと練習しているので。それでも、ざっと10,000枚くらいはあると思います。 『夢のおもちゃ』 −昨今のDJ業界というか、ご自身を取り巻く環境についてお聞かせください。 1980年代にスクラッチが日本に入ってきて、先輩方が色々と試行錯誤を繰り返されたのを僕たちが継承して伝えている訳なんですが、今はポータブルレコードプレーヤーでスクラッチが出来る。いわゆるおもちゃですよね。”おもちゃ以上プロ仕様未満”がちょうどいいんですよ。1960年代以前からポータブルのレコードプレーヤーはありましたが、それに*****フェーダーを付けるだけで楽器になっちゃったんです。これが僕らからすると”夢のおもちゃ”なんですよ。小さい頃から子ども達に、こういうので楽しく遊んでもらって、プロのDJを目指してもらえたら嬉しいです。ただ、もっとDJの仕事ができる環境が増えればいいなとは思いますね。 『かっこいいと思う方向へ』 −スクールだけに留まらず、製品企画や楽曲制作など様々な活動をされてますね。 そう言われればそういう人はあまりいないですね。珍しいタイプだと思います(笑)誰もやった事無い事をするのが好きなんですよ。興味があることにはとことん突っ込んでやります。製品の企画とかも自分が好きで(DJを)やっているので、こんなの欲しいな的なアイデアはいくらでも出てきます(笑) −DJスクールの在り方についておしえてください。 お金を持っている企業がスクールなどをやりだしましたが、二つの方向へ分かれて行ってると感じますね。ターンテーブリストがやってるスクールとそうじゃない人がやっているものとではレッスン内容が大きく違います。でも、それぞれがかっこいいと思う方向へ行ったらいいと思います。クラブやフェスとかで盛り上げる方が良いと思えばそっちへいけば良いし、僕らみたいにコンテストやバトル、寡黙にスクラッチをやっているのがかっこ良いと思えばそれで良いと思います。 −ご自身がDMCなどの大会に出場されていたのは? 1993年あたりから1999年にかけてです。 −その当時はDJの大会は、どんな大会がありましたか?また、日本人のDJはどんな感じだったのでしょうか? 今残っている大会はDMCぐらいじゃないですかね。その当時から日本人は本当に努力してきて、GM-YOSHIさんやDJ HONDAさん、DJ TA-SHIさん等、世界にランクインされている方もいらっしゃいました。みなさん努力家で繊細ですね。今ではDMCでも常勝国として認知されるほどになりました。 『自分を信じて、自分のスタイルで』 −これからDJを始める方やプロDJを目指される方へコメントをください。 技術的なものは、独学よりも習う方が良いと思います。身につけた技術をどう使うかなんです。他人のスタイルを参考にするのは良いですが、それを真似るのではなく、自分を信じて自分のスタイルでやるべきです。人に流されると二番煎じ、三番煎じになってしまう。誰もやっていない事をやる方が良いです。 https://youtu.be/UScAlzi6dQs *1985年に大阪宗右衛門町にあった、ステーキが美味しいと評判だったディスコ**世界一のDJを決める大会***若干12歳にして「DMCJAPAN2017」を制覇し同年10月にロンドンで開催された”DMC WORLD DJ CHAMPIONSHIP”に出場し過去最年少で世界王者になったDJ****1992年に南カリフォルニアで結成されたDJ、プロデューサー集団*****DJミキサーなどに用いられている音量やエフェクトの出入力のレベルなどを設定するツマミ。ここでは、2つのチャンネルを切り替えることができるポータブルクロスフェーダーのことを指す。 インタビュー後記 DJに対しての昔からの一般的な既成概念を覆させられました。なにか、噺家の世界観を彷彿とさせるような経歴と思想、そして日本のDJ業界に対してしっかりとした持論と教養も持ち合わされておられたのに驚きました。今まで個人的に抱いていた「チャラチャラとして不健康そう」というイメージとは正反対でした。なにより先人達に対しての尊敬を忘れず、いつも謙虚な姿勢に頭が下がる思いがしました。$HINさんのお人柄が凝縮された取材になりました。 Turntable Troopers ENT.代表取締役/DJ/プロデューサー DJ $HIN (でぃーじぇい・しん) 幼少の頃より洋楽を耳にする環境の中で育ち、10歳からブレイクダンスを始める。1990年DJに目覚め、1991年よりプロのDJとして活動をスタート。同時にDJバトルにインスパイアされ、そして参戦。数々のタイトルを奪取、西日本チャンピオンを4度経験し、1998年には日本第2位まで上り詰め、翌年1999年、DMC日本代表となった。それと同時に、K.O.D.P.のBooなども在籍したS.B.S.のDJとして、Word Swingaz/FutureShockのライヴDJとしても活躍。名曲Shingo2/E22との”Pearl Harbor”などのトラックメイカーとしても知られる。さらには数々のテレビ番組にも出演、FMラジオ番組のレギュラーも務めた。2003年にはCREWの名を一部に冠したレーベル、“Turntable Troopers ENT.”(T.T.E)を立ち上げ、第1弾音源ともなるソロアルバム『World Famous』をリリース。その後、『SAMURAI BREAKS』、『BANZAI BREAKS』、『KAMIKAZE SKIPPROOFS』など、次々にリリース。どれも国産バトルブレイクス史上記録的なセールスで、今もなお記録更新中である。最近ではDJスクール、音楽専門学校など若手育成やプロデュース活動に重点を置き、そのスキルを発揮している。まさに日本DJ界の『PIONEER』的存在。 LINKTwitter【 https://twitter.com/djshin1200 】Instagram【https://www.instagram.com/djshin1200/】Blog【 http://ameblo.jp/skratch/ 】Turntable Troopers ENT.【 http://tte.jp 】...

アナログレコードを愛する人々第4回 有限会社モル・ティム 代表取締役 田宮 守氏

第4回は、青山キラー通りのイタリアのヴィンテージ・バイク専門店「HIPHIPSHAKE」の田宮氏にインタビュー。以前は同じ場所でヨーロッパ音楽専門のレコードショップを経営されていました。 『「アメリカ」イコール「憧れ」だった幼少時代』 ―田宮社長は以前にこちらでレコード店を経営されてたと伺いましたが? フレンチのビンテージレコード専門店です。ここと吉祥寺大通り沿いにもうひとつ店舗を持っていました。 ―それはシャンソン専門店って事でしょうか? シャンソンと、アメリカのポップスに影響を受けたフレンチポップスですね。ゲンスブールとかあの辺です。上客には90年代に有名アーティストを次々と手がけた著名な方々もいらっしゃいましたよ。レコードは探して来なきゃ商売にならないんで大変だったんですが。 ―どうやって買い付けられていたんですか? レコード市ですね。パリに行ってもだめです。レギアノ村って言ったかなあ。町中でワインオープナーだけを作っている所があって、そのだだっ広い広場で開催されるレコード市とかですね。 ―最初からフレンチポップスがお好きだったんですか? いえ、最初はイギリスやアメリカの、たとえばジーン・ヴィンセントやリトル・リチャード、オーティス・レディングとか。自分でBELLETS(ベレッツ)というバンドをやってまして。同期には80年代に活躍した著名なバンドもいましたが、当時は僕らが当時飛びぬけて売れてましたね。ライブをやるとドイツの国営放送とかが取材に来たりして。アメリカの50年代をやるなんてどんな日本のバンドなんだと。 HIPHIPSHAKEの外観。レコードショップ時代からほとんど外観は変わっていないのだそう。 ―田宮社長のサブカルチャーにおけるルーツはどこにあると思われますか? 母親が音楽やってたのが大きかったですね。江利チエミさんの伴奏をやってたり。江戸の職人の娘なんで、当時は芸能界に入るなんてご法度で、何年も勘当同然だった様です。僕はパット・ブーンとかを普通に家で聞いてる子どもだった。サザエさんを見たいのにテレビを消されてしまって。フォークとナイフでキャンドル立てて、完全にアメリカかぶれのライフスタイルでした。 ―それは東京というか、原宿、青山という土地ならではですかね? この辺は進駐軍のベースキャンプでしたからね。代々木公園にワシントンハイツという官舎が建ち並んでましたから。街全体がアメリカかぶれでしたね。下町の子達に言われたもの。「渋谷はアメリカみたいだ」って。敗戦の傷が癒えずアメリカを敵視していた人たちもまだ沢山いましたが、学校から帰るとアメリカのホームドラマが流れていました。僕らは「アメリカ」イコール「憧れ」みたいに洗脳されちゃってましたね。「ルート66」とかでかっこいいアメ車が出てきたら、もう子供なんか完全に憧れちゃいますよ。 『好きだったものを死ぬまでやろうと思っている』 ―どうして今、ビンテージのイタリアの自転車を扱われているのですか? その前はジーンズとか、古着を売っていたんです。 50’s(フィフティーズ)っていうんですが、ヤンキーでもロックンロールでもなくアメリカン50’sカルチャームーブメントを70年代の後半に作っていました。 村八分の初代ドラムの村瀬茂人さんが、当時サンフランシスコで和骨董と和家具のお店をやっていて「アメリカの古着を日本に持っていったら凄いことになるぞ」と教えてくれたんです。そこで僕はアメリカに仏像等を持ち込み、帰りは古着を持ち帰ったんです。みんなあの頃僕の古着屋に来てインスパイアされていました。そんなことを続けていたら古着はもう極めてしまって。その内みんなが古着古着って言いはじめて嫌になってしまい、自転車屋になりました。小学生の時にイタリアのLEGNANO(レニアノ)というブランドのロードバイクを買ってもらっていて。僕は子供の時に好きだったものを死ぬまでやろうと思っているので。始めた頃はイタリアの自転車なんかなくて、自転車屋は3Kと言われ嫌われる現場のひとつだったんですけどね。 ―一日の中で音楽との関わりってどんな感じですか? 店内は昔のFEN。今で言うAFN(American Forces Network)。米軍放送です。家に帰ると50’sやフレンチポップスのCDを主に聴いています。 ―20代でバンドを辞められたとのことですが、なぜですか? もうつまんないから。みんなが「俺も」ってやり始めると、嫌になっちゃうんです。 ―人生に別れ道というか、選択しなければならない時ってありましたか? ないです。好きなことやりますから。己との葛藤はありますよ。「何が一番好きだったんだろう」って。 HIPHIPSHAKEファンのイタリア人イラストレーターの方に描いていただいたイラストとのこと。店内に大事に飾られている。 『職人としての気位』 ーお客様にはどんな方がおられますか?  企業のオーナーとか、元官僚トップとかはいらっしゃいますね。上は85歳で現役がいますよ。ここから富士山の5合目まで行って帰ってきます。みんな往復で200kmとか250km走りますね、1日で。だからロードレーサーというのは軽くて丈夫で、ある程度スピードも出せて遠くまで走れるっていう乗り物じゃないとダメなんです。 フロントディレイラー(変速機)と呼ばれる部品。 ―たとえば富士山付近まで往復したりすると途中でどこかが故障したりしないんですか? それがありえるから大変なんです。200kmを往復するような方が、僕のミスで落車して大怪我する可能性はゼロじゃないと思ってるんで。そういうリスクを背負う気位ですよ。僕のは1年間は平気ですね。壊れないメンテナンスの仕方ってあるんです。 ―それも買った方に教えられるんですか? 教えません。プロゴルファーだってコツを素人に教えるだけであって。プロがプロのやり方を教えたら自分が喰われちゃうじゃないですか。自転車も半年、1年後に「いやぁ大変だったよ」って乗った人が言うのがいいんであって、それまで僕らは我慢しなくちゃいけない。映画を観る前に結末を教えちゃいけないのと同じですよ。5年後、10年後に気が付いてくれるお客さんがいるから、リピーターになるんです。旋盤屋に「この部品はこの金属のブレンドで硬度はこれで作って下さい」って指示して、ネジ1個から全部作るんですよ。ネジ1個なかったら自転車って走れないんですから。 ―1台も同じものはないということですか? 指紋と同じで、1台たりともないです。双子が生まれて自転車2台買って乗り出しても、二人は違う道路、環境を通るんでタイヤの減り方から違いますよ。 ―自転車のフレームはイタリアまで買いに行かれるんですか? ミラノですよ。発祥の地です。作った人全員に会いに行きます。火の入れ方なんかも職人によって違うので。師匠から弟子の名前も4、5人位は聞いて覚えておきますね。工場では職人たちがが右利きか左利きか全部メモってます。聞いたことも全部録音して。イタリア語でもすごく訛ってるから、通訳に後で聞いても分らないんですがね(笑)。 ―自転車の修理もされるんですよね? ここで買ってないものでもでしょうか? それは全然OKです。何百万もした自転車の延命措置を頼まれるんです。僕が人間のお医者さんだったら大変ですよ。持ち込まれる自転車は末期がんクラスの患者ですからね。それを治して何十年も乗れるようにするわけだから。電子顕微鏡で見たりもしますが、そこから先は勘です。勘に勝るものはないです。 ―1台オーバーホールするのにどのくらいかかるんですか? ものによっては1~2年です。全部バラして。オートメーションじゃないんでね。 *音叉で部品を叩き、共鳴する音でホイルに緩みなどがないか確認する。 ―1年間に関わられる自転車って何台くらいなんですか? 3ケタです。簡単な電話対応のものも含めてですが。「どんな音がどの辺からしてますか?」みたいなね。 ―今日は社長からモノづくりの気概みたいなものを教えて貰った気がします。 名選手がいても、それを支えるメカニックや職人さんがいないと成り立ちません。こういうことが僕の中では大事なんです。 『好きなものを見つけたらとことん行け』 ―お話を伺うと、歳を重ねる醍醐味みたいなものを感じますね。 アメリカにも「old gold」って言葉があって、歳を取れば取るほど金の価値に近づいていくということなんです。みんな踊らされちゃってんのがたまならなく辛いですね。やっぱり好きなものを見つけたらとことん行けと。きっかけってみんな気が付かないんですよ。それに気が付かないで、自分で自分を潰しちゃうんですよね。好きだったら、続けること。ひとの100倍練習する。100倍深堀りするってことじゃないでしょうかね。 ―それではお気に入りのアナログレコードを1枚を教えて下さい。 スティービー・ワンダーがリトルスティービーと呼ばれてた頃の「UP TIGHT」というアルバムです。1曲目の「ラヴ・ア・ゴー・ゴー」が秀逸ですね。 https://youtu.be/EDD1TaQvvq8 *U字形の鋼棒の中央突端に柄(え)をつけたもの。たたいて音を出し、音の共鳴・振動数の実験、楽器の音合わせなどに用いる。 インタビュー後記 田宮社長はご自分で青原(あおはら;青山・原宿界隈をこう呼ぶ様です)の「番長」と自称されたのですが、ルーツが仏師や宮大工にあると伺ったせいか、お話しを聞きながら銭形平次や江戸火消しの棟梁をイメージしていました。米軍放送が流れる店先にどんと構える、サブカルチャーの「親分」。音楽も含めたモノづくりにおいて、その背景を紐解き、加工法や素材の必然性を徹底的に突き詰め、職人魂の炎を燃やし続ける本物の大人です。とにかく話しが広く深いので魅了されっぱなしで、界隈は勿論の事、世界中から訪れる本物志向のお客様は時に怒られながらも「大人の寺子屋」に日毎通うのが頷けるひとときでした。 有限会社モル・ティム(HIPHIPSHAKE)代表取締役 田宮 守(たみや・まもる) 学生時代、まだマイナーな存在であった1970年代の原宿で、アメリカ1950年代ファッションのムーブムントを仕掛ける。アメリカのビンテージ古着の豊富な知識を元に、セレクトショップで働くため渡米。デニムや旧アロハ・ミリタリー、時計、シューズ、50年代のレコード等を買い付け、現代の古着文化を確立させる。アメリカの移民カルチャーを学び、60年代のヨーロッパ音楽を扱うレコードショップ「メイド・イン・フランス」を原宿にオープン。その後、イタリア・ミラノの伝統文化であるビンテージ・ロードレーサー専門店「HIPHIPSHAKE」を原宿にオープンし、現在に至る。 HIPHIPSHAKE:https://www.facebook.com/pages/category/Company/hiphipshake-270298649652880/ ...

当社工場の職人へインタビュー(4)

名前:E.M 勤続年数:16年 担当:ゴム成型全般(レコード針の部品としてはダンパーゴム) ダンパーゴムが金型からきれいにはずれるよう型が熱いうちに木べらでこすります。 - やりがいを感じる瞬間は? 注文が沢山来て、自分が生産したものがレコード針としてお客様にご購入していただけた時です。 ダンパーゴムを傷つけないよう丁寧に金型から押し出します。 - 難しい作業は? *バリをきれいに取り除いて、きれいな部品の状態で後の工程に渡すことです。 *バリ:成型時に生じる不要な部分。 歪みなくきれいに穴が空いているか一つ一つチェックします。 ...

アナログレコードを愛する人々 第3回 家具工房アクロージュファニチャー代表 岸邦明氏

『材によって音は変わる』 ―早速なのですが、そこに置いてあるターンテーブルは商品ですか? これは今日納品分なんですが、お客さんがお持ちのベースを作り直したんです。 ―壊れたわけでもないのに作り変えるのですか? 音が全然違ってくる様です。 ―ちなみに材は何ですか? これはメープルですね。ここで二枚を接(は)ぎ合わせています。一枚板で出来ない事もないのですが、100mmを超えて製材するって事が基本的にないんです。もしそれをやろうとすると乾燥に相当年月がかかります。もちろん、人工乾燥炉に入れたりとか出来なくは無いんですけどね。(特注サイズをやり始めると)10年位の単位で材料を用意していかなきゃならないんでね。このターンテーブルの元の材料はアッシュの滅茶苦茶目が粗い材でした。 ―メープルを選ぶにあたってはお客様と色々相談されるのですか? メープルは実際*インシュレーターとして採用実績がありますので。材を変えると音が変わるのは分かっていたんですよ。僕は一通り材料を試してきたので、どんな音がするのか推測できます。だからお客さんの持っているオーディオ機器と、その人の目指す音をお聞きして、これがいいんじゃないですかと提案してます。例えば真逆な音がする材と両方持って行って、実際聞いて頂くと納得して下さいます。 アクロージュファニチャー定番商品の椅子。ロゴのモチーフとなっている。 ―社長もレコード世代ですか? いや、どっちかと言うとラジカセ、ウォークマンの世代でしたが、中学生くらいまではLPを聞いてました。世間と同じでLPからカセットテープ、そしてCDへと変わり、LPは聞かなくなりましたね。そこから30年くらい全然聞いて無かったんです。 ―社長は一日の中でどんな風に音楽と関わっていますか? 仕事をしながらBGM的に音楽を聞くことが多いです。CDでJazzが多いですね普段は。作業場のスタッフはラジオを流してますけどね(笑)。 『経験が積み重ねられるものを』 ―この鳥居の様なロゴは起業の頃から使われているのですか? 最初から使っています。 そもそもは「アクロージュファニチャー」のAと定番でやってるこの椅子を正面から見たデザインなんです。でも見る人は殆ど鳥居だって言ってます(笑)。木工ってね、昔に遡れば、そういう神社仏閣と無縁じゃない職業なんでね。 ―営業は社長がされるのでしょうか? 僕は十年以上やってきて、この仕事では営業をやった事がないんです。音楽之友社さんがそばにあるってのも、越して来て分かってて、エンクロージャーも何度も作ってきてて凄く喜ばれていたから、木工の技術がオーディオ製品に活かせればというのがありました。レーザーターンテーブルという製品の木部をうちがずっと作って来たし。だからそろそろ営業もしなきゃなと思ってたら、音楽之友社さんから無垢材でスピーカーを作れないかという話が来たんです。僕の中では作れない理由が見つからない。結局1セット10万円というものを出しました。音楽之友社として初めての高価格帯商品だった様で、それが売れたし好評だったんです。正直儲からないですが、今、次のモデルの開発手記を連載させて頂いていて、それをそのまま自分のブログに掲載する許可を貰ってるんです。それが何よりの財産になるかなってところです。 ―話が遡りますが、十数年前に木工の仕事を始めたきっかけは何だったのですか? この仕事の前は、親父の借金を返すために問屋業をしていたのですが、5年足らずで返せちゃったんですよ。両親にもちょっと貯金も渡せました。その時自分は28歳で、手元に1千万円の貯金も出来たんです。そのうちAmazonみたいな世界が来て、問屋業は永続きしないなと思ってたんです。だからセレクトショップみたいなものをするか、メーカーになるかどっちかだなと考えました。僕も商材を30種類くらい手掛けましたが、売れたのは所詮1個なんです。モノを売るって結構大変なんだなと痛感してましたので、モノが売れるサイクルの中でこの先30~40年間も俺はヒット商品を出し続けられるのかなといえば、それもしんどいなと思ったんです。で、モノづくりってなった時に、家の中にあって必ず無くならないもので、経験が積み重ねられるものでと考えました。その中から時間をかけて家具に絞ったんです。木工は何となく自分でも出来るかなという感覚があったんです。 店内の様子。木製スピーカーなども販売されている。 『知識を身に付けるため80,000kmの旅に出る』 ―どこかに弟子に入られたりしたのでしょうか? 30歳を回ってから職業訓練校に行きました。28歳で事業を親に引継ぎ、自分は木工の道に行こうと決めて、でも10代からやってる人たちに勝てないじゃないですか。いやどうするかなとなって、人並みかもしれないけど、何より知識が重要だろうと思いました。そこで見聞や情報を身につけるため3年くらいかけて海外を回ったんです。バックパッカーではなくて。当時はまだネットとかもないんで、やっぱ正しい情報というのは本なんですよね。(バックパッカーだと)本を沢山持って行くっていうのも出来ないから、車がいいな、それもキャンピングカーだって辿りついたんです。キャンピングカーっていっても買うだけでも大変じゃないですか。それで更に調べているうちに日本のキャンピングカーが海外にまだ出た事がないのが判ったんです。そこで欧米30ヶ国を国産のキャンピングカーで回るという企画書を作って、キャンピングカー専門月刊誌に持っていきました。すると「面白いね」と言ってくれて、毎月4ページの連載を頂いたんです。今度はキャンピングカーメーカーに車両を借りるべく持ち込んだら、大阪の会社が1社採用してくれました。ヨーロッパから北米、ニュージーランド、オーストラリアと二年かけて回りました。 ―全走行距離はどれくらいですか? 80,000km位ですかね。執筆しながらの旅です。 『あなたの思いをかたちにします』 ―この先の事業の展開はどんな風に考えてらっしゃるのですか? 本来なら作家みたいに自分が作りたいものを作って、それを欲しい人が買ってくれたらそれが一番いいんですが、そんなに自己表現に執着していないんです。どちらかと言ったら顧客満足の方が強いんです。お客さんが本当に欲しいものを突き詰めて作っていく方向に舵を切ろう思っていて、僕の社是みたいなものが「あなたの思いをかたちにします」なんです。誰にも負けないフルオーダーメイドの家具を作ろうというのをひたすらやってきています。今僕は丸太で材木を買ってきて製材所に頼んで挽いて貰って、3、4年かけて乾燥させたもので作ってます。一つの家具は一つの丸太からっていうのはほとんどどこもやってないです。東京都内で丸太から家具を作ってるところはうちだけなんです。そこをまず突き詰めてるんですけど、採算が取れるとは限らないです。なぜかと言えば無茶苦茶時間がかかるので。だから木工教室を始めました。今生徒さんが200人います。 ―どんな方が通われているのですか? 男女比は同じくらいで、年齢は本当にバラバラです。長野から通われている方もいますね。木工教室の質と規模としては日本一だと思っています。プロの世界の方がもう機械でしか作らない時代になってきてるんです。個人はそういう機械を持てないから、逆に手の技術が伸びたりするんです。 ―生徒さんの作品を手伝ったりするのですか? 前は手伝っていましたが、今はなるべく自分でやれる様にしています。手を貸しちゃうと「先生に最後手伝って貰っちゃったな」というマイナスな想い出が残るんです。レベルはともかくとして生徒さん自身が作り上げた方がやっぱり満足感があるというのが十数年やって学んだことです。 『無茶苦茶「とことん」みたいです』 ―フルオーダー家具というのは高価だし、そうそう買い替えないものなので、お客様が値段に納得し、満足してもらう為の社長ならではのやり方はありますか? うちに来られるお客さんって、ここに来るまでにほとんどの家具屋さんを回ってるんですね。よそで満足できなかった自分の想いが形にならなくて、それでも諦めずに探し続けたら、うちみたいな存在を発見して、藁にもすがる気持ちで来られる方が多いんです。あちこちで修理やオーダーメイドを断わられていますからね。でもブランド力が全く無いこの僕に、50万円、100万円預けていいのかってとこですよね。形があればいいけど、最初は何も無いですから。せいぜいあって図面ですよ。僕は一般的な努力は勿論しますよ。ニーズを知る為にお客さんの話をとことん聞いたりとかはね。でもその「とことん」が無茶苦茶とことんみたいですね。それは納品時に言われますね。「家の中の全ての家具を見て、こんなにとことん向き合ってくれた人はいない」って。だから現場には必ず行きます。 https://youtu.be/J-L8U_Rr2IU *オーディオ機器の下に敷く振動吸収材 インタビュー後記 ドラマの様な半生に驚きました。人生の岐路に立つ度にいつも無茶苦茶考えて、納得して選んで人生を歩まれている前向きな姿勢には、いい加減な自分が恥ずかしくもなりました。徹底的な顧客満足の追求こそが小さなメーカーの生きる道と信じて実現し、実績をあげられている事実に刺激を受けました。(こう書くと嫌がられそうですが)私がこれまで会った中で確実に3本の指に入る外見も内面も「イケメン」だと太鼓判を押します。そしていつか家具をオーダーしたいと思いながら神楽坂を後にした次第です。 家具工房 アクロージュファニチャー代表 岸 邦明(きし・くにあき) 大学卒業後、物販の仕事を行う。制作に携わらず、本当に良いものか確信を持てないまま販売することに満足することができず、制作から販売まで責任を持って行える仕事を探す。木工から家具に興味を持ち、28歳のとき、家具工房を生業にすることを志す。29歳から31歳の3年間、約20カ国をモーターホームで巡り、歴史ある国々の生活様式や文化財に触れ、どのような家具を制作していくべきかを学び、感性を高める。32歳で家具制作の訓練校に通い始めてからは木工に全力の日々。少しでも良い物を作りたいとチャレンジし続け、現在に至る。「しっかりした物を作りたい」「お客様の望みを叶えてあげたい」が今も変わらない一番の目標。 家具工房アクロージュファニチャー http://www.acroge-furniture.com ...

アナログレコードを愛する人々 第2回 田中伊佐資氏

オーディオ誌「Stereo」や「Analog」に連載を執筆中の人気フリーライター田中氏に自身の音楽との関わりや変遷についてインタビューしました。 ―音楽と出会ったきっかけは何ですか? 小学校の頃のラジオ番組ですね。洋楽の番組を熱心に聴いていました。なぜ歌謡曲ではなく洋楽なのかというと、「俺はこんなの聴いてるぜ」と友達にかっこつけたかったからです。でも、長続きしているということは、歌詞の意味もわからないけれど、どこかで好きだったんでしょうね。 うちは両親が音楽好きとかではなかったので、オーディオシステムなんてありませんでした。雑誌に付いてくるソノシート聴くための、ただ音が出るポータブルプレーヤーがあっただけなんです。そのうちヒット曲のレコードが欲しくなるわけですが、ターンテーブルが小さいのでシングル盤しか聴けないんですよ。 すると、ある日友達が「上蓋を開けたままにすればLPもかかるよ」と教えてくれたんです。レコードがプレーヤーからはみ出すんですけど、確かにいける。お小遣いをせっせと貯めてLPを買いました。初LPはビートルズの「オールディーズ*」でしたね。音が出た時にはすごくうれしかった。これからLPも聴けるぞみたいな感じで。 その後、そのポータブルプレーヤーのちゃちなスピーカーを変えました。ユニットを買い、箱を自作しました。その時の音を出した感動はすごかったです。もちろん今聴いたら全然いい音ではないでしょう。しかし、音楽を聴く喜びが無限大に広がっていくような感覚がありました。それが僕のオーディオにのめり込む原点になりました。 田中氏のオーディオルーム ―音楽の世界で生きていこうと思われたのはいつ頃ですか? それはずっと後年です。 雑誌が好きだったので、大学の頃から編集者になりたかったんです。ただ自分で文章を書こうという気はまったくありませんでした。最初は就職情報誌の編集部で仕事をしていました。音楽とは関係のない仕事です。 ある日、高校時代から読んでいた雑誌「Swing Journal」を見ていたら「編集者募集」と載っていたんですね。入社したいというよりもどんな会社なのか見たくなって、応募してみたんです。そしたら受かってしまったので、悩みましたけど、転職することにしました。 そこから音楽は、純粋な趣味ではなく仕事にもなりました。 就職情報誌の会社にいた時はちょうどバブル期に当たり、ものすごい残業をしていたんです。その残業代を使うような大した趣味がなくて、なかなか高額なオーディオを思い切って買ってしまったんです。 その後、「Swing Journal」をやめてフリーになったのですが、その時にも文章を書こうという気はなく、フリーの編集者になろうという気持ちでした。でも、フリーの編集の仕事ってそんなにないんですよ。そうこうしているうちに、面識があった「音楽之友社」や「音元出版」の編集者から「田中さん、辞めたんだってね。何か書いてみない?」という誘いがあったんです。そこで少し書いてみたら、じゃあ次もよろしく、という感じで仕事がつながっていった。その成れの果てが、この有様です(笑) ―話は変わりますが、MCカートリッジではなくMMカートリッジがお好きなようですが、それはなぜですか? 高級なMCも持っていて、使っていたこともあります。 でもMMの鳴りっぷりが好きなんです。オーディオ・シーンにおいてはMMよりMCの方が上級と位置づけられていますし、僕はそれを盲信していた時期がありましたが、ようやく自分の音に確信が持てるようになったということですね。高額であればあるほど音が良くなるみたいなことはないと思います。オーディオってそんな簡単でわかりやすい趣味ではないですよ。 ―以前当社の工場にいらした時に、「いろいろと試したが結局**44に戻ってきた」とおっしゃっていたのが印象的に残っています。 そういう人、少なくないですよ。MCは微小な情報を丁寧に扱って、後から出力を大きくする。一方、MMは初めからパンチ力がある。それは往々にして粗削りなMM的側面があるかもしれませんが、その後のオーディオシステムで磨いてあげる。自分の生理的な感覚に照らし合わせるとMMの方が合っているように思っています。 ―私は田中さんと知り合って、N44-7の良さを再発見することができました。 僕よりも遥かに音楽通の方が、「恥ずかしいんだけど、いまだに44なんだよね」とおっしゃっていたので、「もっと堂々としてくださいよ」と活を入れました(笑)。「人に『まだMC使ってるの』くらいのことを言ってやってください」と。 ―ハイエンド=MCというイメージが確立されているような気がします。 MCは高いものが多いですからね。問題なのはそのハイエンドの音が自分の志向に合っているかどうかです。原音を忠実に再生しようとすることをHi-Fiと呼ばれていますが、自分が良ければそれでいい、自分の好みに忠実であろうとすることを僕は「My-Fi」と呼んでいます。人がなんて言おうとノイジーなLo-fiがしっくりくれば、それでいいという考えです。MMカートリッジは僕にとって「My-Fi」の象徴です。 少し話が変わりますが、モノラル盤専用のヴィンテージオーディオでも僕は音楽を聴いています。ヴィンテージのシステムから出る、こちらのハートの中に土足で入ってくるようなスピード感やパワー感は、Hi-FiだとかMy-Fiだとか言っている場合じゃないほど強烈です。理屈抜きのエネルギーを感じます。 この頃のレコード針というのは、やはりMMです。この当時の音の雰囲気を現代的なオーディオでも再生したいな、という気持ちは少なからずありますね。後ろ向きな考え方のようにも聞こえますが、なんでもありなのがMy-Fiです。 ヴィンテージのモノラルプレーヤー。かなりのレア物。 ―ところでCDもたくさんお持ちですが、 CDで音楽を聴かれることもあるのですか? 仕事では聴きますが、個人的な趣味としてはあまり聴かないです。といってもCDが出てきてから長らくは、レコードは休止してCDをメインに聴いていました。レコード一筋何十年みたいな人はざらにいるわけで、僕はこうしてレコードについてもっともらしく語る資格なんてないんですけどね(笑)。 ―8トラックや4トラックのテープもお持ちなのですね。 これは最近集めたものです。アナログという意味では、レコードと同一線上にありますけど、やはり音は全然違います。8トラックの音は、いなたいというか、田舎くさいんですよ。Lo-Fiの極みですね。ただ、それがハマる音楽もあるんですよ。スワンプなロックとか、80年代ロックとか・・・"Journey***"とかいいですよね。8トラックはアメリカの音楽が合いますよね。 懐かしい8トラック(通称8トラ)の数々 ―CDとレコードはそれぞれどういった良さがあると感じますか? レコードの方が、いい音を出すのが大変だと思います。同じ予算でレコードとCDのシステムを組んだら、CDの方がいい音が出ますよ。さらに選曲とか機能的ですし、ずっと流していても自然に止まるし。しかし、自分の肌に合った音を求めて一歩踏み込もうとすると、レコードのほうがいじり甲斐がありますね。 趣味として考えた時に、レコードには大きなジャケットがあったり、中古盤の個体差があったり、プレスしている国や時期が異なると音が違ったりと、煩わしく感じる方もいると思うのですが、僕はそういうのが面白いなと思っています。 レコードの音の微妙な違いを楽しむことと、MMの針を取り替えて聴く面白さには共通する部分があります。 ―機材の違いを聴き比べる時に、どういった音楽で比較されるのですか? 聴く機材にもよるんですが、ビートルズの"アビイ・ロード"のB面に収録されている"Sun King"はわりと使います。この曲には虫の声が入っているのですが、それが右から左のチャンネルに動いていくんですよ。いい音が出ている時は、スピーカーの後ろに虫がいるように聴こえますね。 それに加えて、その曲にはヘビーな低音や強めのドラムのキックが入っているのですが、そういった低音の質感を気にしますね。その後に、メンバー全員のコーラスが入るんですよ。そのハーモニーの広がり感と音色をチェックしますね。 それからもっと一般的なチェックのポイントは、演奏に躍動感があるか、前に出てきてこちらに訴えかけてくるような感じがあるか、といった辺りですかね。なかなかうまく言えないのですが、最高なのは、スピーカーからはみ出てくるような音ですね。「最高の時はスピーカーの存在が消える」と言う方がいます。自分の目の前のスピーカーが消えて、後ろの壁が抜けてしまったように感じることです。要するにサウンドステージが出来上がっている状態です。僕が言っているのはそういう感じでもなくて、スピーカーに収まりきらないような音がドクドクと噴出している感覚です。スピーカーが120%フル回転しているような。それが僕にとっての「いい音」ですね。 機材のチェックをする時にはそういう音が出ているかどうか確認しますけど、やはり簡単には出ないですね。そういう音の片鱗が見えれば、セッティングなどの調整次第でもっといい音になる予感はあります。 The Beatles "Sun King" https://youtu.be/6bNMxWGHlTI (出典:youtube) ―最後の質問です。あなたにとってのアナログレコードとは何ですか? https://www.youtube.com/watch?v=PZryQqUQSl4&t=3s 2019年5月に発売された田中伊佐資氏の著書「ジャズと喫茶とオーディオ」好評発売中。 田中伊佐資著「ジャズと喫茶とオーディオ」出版:音楽之友社https://www.amazon.co.jp/dp/4276962927/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_b8zjDbP8NJG53 * 「オールディーズ」(A Collection Of Beatles Oldies)  ビートルズのベストアルバム。 ** SHURE M44シリーズのカートリッジのこと。 *** アメリカのロック・バンド。 田中伊佐資氏インタビュー後記 少し蒸し暑い取材当日、田中さんはわざわざ最寄り駅まで車で迎えに来てくださいました。10分ほど走り、閑静な住宅街の中で先生は突然、「ここです。着きました」と。 立派な門扉と手入れが行き届いたお庭に圧倒されつつ二階に案内していただくと、誌面等で見覚えのあるオーディオルームが!やっぱり凄い!現物はまるで違いました。私がまず反応したのは1950年代のモノラルプレーヤー。田中さんは「そこに食いつきますか!」とひとしきりモノラルについて語られ、その後取材へ。仕事なのか鑑賞会なのかわからなくなるようなワクワクする時間を過ごさせていただきました。田中さんのレコード愛に触れ、"My-Fi"についてのお話には強く共感いたしました。 取材を終えた帰路の途中で、キャスターカバンを忘れたことに気づき慌てて戻ろうとすると、自転車に載せて追いかけて来られて「大事なものを持って来ました(笑)」と・・・。そのお人柄にも触れられ、幸せな気持ちになれた取材でした。 田中伊佐資(たなか・いさし) 東京都生まれ。音楽雑誌の編集者を経てフリーライターに。現在「ステレオ」「オーディオアクセサリー」「analog」などに連載を執筆中。この5月に「ジャズと喫茶とオーディオ」(音楽之友社)を刊行。ほか『音の見える部屋 オーディオと在る人』(同)、『オーディオそしてレコード ずるずるベッタリ、その物欲記』(同)、『僕が選んだ「いい音ジャズ」201枚』(DU BOOKS)、『オーディオ風土記』(同)、監修作に『新宿ピットインの50年』(河出書房新社)などがある。ツイッターは「田中伊佐資」で検索。 ...

当社工場の職人へインタビュー(3)

当社工場で働く職人へ、インタビューを行いました。 名前:K.K  勤続年数:37年 担当:樹脂(ノブ)成型 - やりがいを感じる瞬間は? お客様からご注文をいただき製品が商品になって出荷する時です。 - 難しい作業は? 形が複雑な型番のバリ取りと、インサート成型です。部品が複雑な形のインサート成型は金型が壊れないように特に集中します。 *バリ:樹脂成型時に生じる不要な部分。 *インサート成型:金属部品(ホルダー)を金型に設置した後に樹脂を流し込み、金属部品と樹脂が一体化した部品を作る工法。 ...

アナログレコードを愛する人々 第1回 Toma Campbell氏

「アナログレコードを愛する人々」と題して、レコード愛好家の方々にインタビューを行っていきます。  第1回は、東京赤坂にあるご自身の工房で、スピーカーをはじめとするオリジナルグッズを制作されている、Toma Campbell氏へのインタビューです。 ―Tomaさんの音楽との関わり方を教えてください。  朝は、アレクサでクラシックをかけています。午後になると、レコードを聴きますね。レコードをかけるときは、気持ちにスイッチが入る感じです。 ― 主にどんなジャンルをお聴きになっていますか?  気分によって、ジャズだったり、ロックだったり、ソウルだったりいろんなジャンルを聴きます。雨が降ると気分が沈みがちなので、元気を出すためにレコードをかけるんです。ジョージ・ベンソンのようなフュージョンですとか、オリビア・ニュートン=ジョンをかけると、雨の日でも気分が晴れてきますね。 ― Tomaさんはご経歴から映像の世界の方だと思っていましたが、なぜ今、スピーカーをはじめとする音の世界へ?  もともと、音楽業界に行きたかったのですが、なかなか機会に恵まれませんでした。しかし、1980年代は映像関連の仕事が増えてきた時期で、その流れに乗りそちらの仕事に就くことができました。映像の仕事は、音と密接に関係しています。ナレーションを録音したり、映像にどんな音楽が合うのか選曲を考えたり。やはり、そういった工程が一番好きでしたね。 AkasakaBaseで販売しているスピーカーの一部。 ― スピーカー作りをなされるようになるきっかけはなんだったのですか?  iPhoneを台に乗せ音を増幅するという商品を東急ハンズで見つけ、それを自分で作ってみたんです。バックロードホーン構造のスピーカーだったのですが、iPhoneでこれほど音が変わるのなら、本格的な物はもっと劇的な効果があるのではないかと考え、作ってみたのがきっかけですね。その後、オリジナルのスピーカーを作った方が面白いと考え、一合桝、一升桝を改造したスピーカーを作って、ブログに載せたり、雑誌の企画に応募して載せてもらったりしました。同じ年の夏、東京ビッグサイトで開催されたハンドメイドフェスに参加し、スピーカーを販売したところ、好評で売り切れてしまったんです。自分の作ったスピーカーで喜んでくれる人がいることを初めて認識し、広告業界を辞め、「Sound Goods Laboratory」を始めました。 ― 今後はどういった活動を?  今興味を持っているのは、照明です。ネオン管ですとか、視覚に訴えるような癒しのグッズを作っていきたいですね。それから、ものを作っている人たちとの交流を広げていきたいです。ジャンルの違いはあっても、何かを作る人たちとは話が合うんですよね。私はスピーカーですが、花瓶を作っていたり、Tシャツを作っていたり、いろんな方がいます。そういった方たちと、フリーマーケットのような感覚で、作品を売り買いする関係を作っていったら面白いと思います。 ― あなたにとってのアナログレコードとは何ですか? https://www.youtube.com/watch?v=KToDPPPT7Kw Toma氏の工房。ここでスピーカーを製作されているそうだ。 インタビュー後記  Toma Campbell氏のアトリエは、例えるなら秘密基地だ。氏の趣味である60~70年代アメリカングッズがあちこちに何気なく置かれているが、細やかで確かなセンスに裏打ちされた、快適な空間であった。あらゆるモノが昔からそこにあるかのような佇まいで置かれていたが、取材時はまだ入居3か月であったというから驚きだ。置かれているモノのひとつひとつからは、氏のそれらに対する深い愛情が感じられ、逆説的に言えば、「愛はモノにしか宿らない」という印象を強く抱いた。今後も進化し続けるToma氏のアトリエ。日を置かず、今度は夜に訪れてみたい。 Toma Campbell(トーマ・キャンベル)アカサカベース サウンドグッズ研究所でプロダクトデザインを担当するアーティスト。「クリエイティブの本質とはモノづくりにある」という信念のもと、音響、照明、インテリア、音楽をはじめとするメディアアートの制作に取り組んでいる。作品を通じて世界中の人々を笑顔にするのが自分の夢。テレビ、音楽、広告、WEB業界を経て、AkasakaBase Sound Goods Laboratory を東京赤坂にオープン。 2004年/モノフォニカレコードから「ハミングキッチン」発売 2006年/東京インタラクティブアドアワード入賞 2015年/東京ビッグサイト「ハンドメイドフェス」にオリジナルスピーカーを出展 2019年/東京赤坂にメディアアート工房『アカサカベース』オープン AkasakaBase Sound Goods Laboratory https://akasakabase.com/ ...

当社工場の職人へインタビュー(2)

当社工場で働く職人へ、インタビューを行いました。 名前:M.M(製造グループサブリーダー) 勤続年数:13年 担当:組み立て - やりがいを感じる瞬間は? 組みあげた針が無事に出荷された時です。 - 難しい作業は? 滅多に注文が来ない(年間に数本しか来ない)型番を組む時です。 ...

当社工場の職人へインタビュー(1)

当社工場で働く職人へ、インタビューを行いました。 名前:M.T(製造グループリーダー) 勤続年数:23年 担当:音検査 - やりがいを感じる瞬間は? メールなどでお客様からお礼の言葉をいただいた時です。 - 難しい作業は? 特殊チップ(楕円針、S楕円針、シバタ針)のビビリ音、遊び(可動範囲のこと)でデータでは判りづらい微妙な判断を求められることです。 ...